今日から魔導師
地下資料室の空気は、古紙と埃、そして微かなインクの匂いで満たされている。
オーギュストは分厚い羊皮紙の束を机の上に広げ、羽ペンでさらさらと文字を走らせていた。
その対面には、真新しい、少しサイズの大きな作業着に身を包んだリリスが、背筋を伸ばして座っている。
彼女の濡れていた銀髪は乾き、無造作にだが清潔に整えられていた。
瞳には、師の言葉を一言も聞き漏らすまいとする、切実な光が宿っている。
「いいか、リリス。お前の力は魔法ではない。だが、世界はそれを魔法と呼びたがる」
オーギュストはペンを置き、リリスを真っ直ぐに見据えた。
「人間は理解できないものを恐れ、排除しようとする。だから、奴らに理解できる枠を用意してやるんだ。それがお前を守る鎧になる」
彼は羊皮紙をリリスの方へ押しやった。
そこには、複雑な魔法陣の図解と、古代語らしき難解な文字列がびっしりと書き込まれている。
「登録申請書には植物系統・特質変化型と記載する。希少だが前例はある。触媒として植物を用い、魔力で急速成長させて使役する魔法だ。お前の腕から茨が出るのではなく、袖口に隠した種を急成長させていることにする」
リリスは紙面を見つめ、小さく頷いた。
嘘をつくのではない。
生きるための定義を上書きするのだ。
彼女の中で、異形の怪物としての自己嫌悪が、魔導師という役割への使命感に塗り替えられていく。
オーギュストは書架から一冊の古びた本を取り出した。
革表紙には金の箔押しが施されているが、中身は初歩的な植物図鑑と魔力理論の解説書だ。
「これはお前の魔導書だ。常に持ち歩け。中身を読む必要はないが、人前では熱心に読み込んでいるフリをしろ」
続いて、彼は部屋の隅に立てかけてあった一本の短い杖をリリスに渡した。
何の変哲もない樫の木の杖だが、先端には小さな緑色の魔石が埋め込まれている。
「そして、これが重要だ。詠唱だ」
オーギュストの声が一段低くなる。
「本来、お前の力に詠唱は不要だろう。感情のままに発動する。だが、それでは暴走を招くし、何より異質すぎる」
「言葉は枷だ。イメージを固定し、出力への道筋を作る。詠唱を挟むことで、お前は無意識に力を制御する間を得る」
リリスは杖を両手で握りしめた。
木の感触が、震える指先に微かな安心感を与える。
「はい。……やります」
短く、しかし決意に満ちた声で答える。
資料室の隅にある姿見の前へ、リリスは立たされた。
「やってみろ。昨夜の花を出すイメージだ。だが、出すなよ。フリだけでいい」
リリスは杖を構えた。
ぎこちない動作。
右手を突き出し、杖の先端を虚空に向ける。
「えっと……咲け、バラよ……」
「違う」
オーギュストが即座に遮った。
「軽すぎる。魔導師は、世界に理を強制する者だ。もっと傲慢に、もっと芝居がかってやれ。言葉の一つ一つに重みを乗せろ」
彼は手本を示すように、大仰な身振りで腕を広げた。
「深紅の棘よ、眠りを食みて目覚めよ……このくらい勿体ぶるんだ。相手を威圧し、自分をその気にさせるためにな」
リリスは一度瞬きをし、呼吸を整えた。
鏡の中の自分を見つめる。
作業着を着た、ちっぽけな少女。
だが、その少女はもう、ただの獲物ではない。
彼女は足を肩幅に開き、杖を水平に構えた。
顎をわずかに上げ、視線を鋭く細める。
肺いっぱいに空気を吸い込み、腹の底から声を紡ぐ。
「――大地に眠る咎の種よ」
声が震える。
だが、止めない。
「我が血を啜りて、鮮血の城壁となれ」
杖を持つ手に力が入り、指の関節が白くなる。
「穿て――【紅茨】」
言い終えると同時に、杖を鋭く振り抜く。
何も起こらない。
魔法は発動していない。
だが、鏡の中のリリスの顔つきは、確かに変貌していた。
「……悪くない」
オーギュストが微かに口角を上げた。
「その顔だ。それを忘れるな。お前は今日から、鉄槌と坩堝の魔導師リリスだ」
昼前、リリスは医務室へと戻った。
エヴァはまだ深い眠りの中にあった。
規則正しい寝息が、静かな部屋に安らぎを与えている。
リリスはベッドの脇の椅子に腰を下ろさず、窓際のスペースに立った。
手には樫の木の杖。
膝の上には、開かれた「魔導書」。
オーギュストとの特訓は終わったが、彼女の中の不安は消えていない。
もし失敗すれば、またエヴァさんを危険に晒す。
正体がバレれば、また「怪物」として追われる。
だから、体に叩き込まなければならない。
この「魔導師」という仮面が、第二の皮膚になるまで。
リリスは音を立てないように注意深く、杖を振る動作を繰り返した。
右へ、左へ。
止め、払い、突き。
唇だけで無音の詠唱を紡ぐ。
深紅の……棘よ……
鏡の前で教わった所作を、一つ一つ確認する。
背筋を伸ばし、視線は敵を見据えるように鋭く。
時折、魔導書のページをめくり、意味もわからぬ文字列を目で追う演技を挟む。
その姿は、端から見れば、初めての学芸会に向けて練習に励む子供のように、あまりにも真剣で、そして健気であった。
ベッドの上で、エヴァのまつ毛が震えた。
ゆっくりと目を開ける。
視界がぼやけ、天井の木目が揺らいで見える。
痛みは引いている。
体は鉛のように重いが、温かい。
「……ん……」
小さな声が漏れる。
視線の端に、動く影が映った。
エヴァは首だけを動かし、そちらを見た。
窓際で、逆光の中に立つ小さな人影。
リリスだ。
彼女はエヴァが目覚めたことに気づかず、真剣な表情で短い杖を振っていた。
「……穿て……」
蚊の鳴くような声が聞こえる。
その一生懸命な横顔。
大きすぎる作業着の袖をまくり上げ、難しい本を小脇に抱え、必死に「強そうなポーズ」を確認している。
昨夜の地獄のような光景が嘘のように、そこには平和で、どこか微笑ましい日常があった。
エヴァの口元が自然と緩んだ。
胸の奥に灯った温かい光が、全身に染み渡っていく。
ああ、あの子は生きている。
そして、前へ進もうとしている。
その事実だけで、砕かれた足の痛みなど些細なことに思えた。
エヴァは声をかけず、ただ静かに、その愛おしい光景を見守ることにした。
この穏やかな時間が、少しでも長く続くことを祈りながら。




