強く、あろう
深い眠りの淵から意識が浮上した時、リリスが最初に感じたのは、微かな薬草の匂いと、背中に当たる硬い寝台の感触だった。
目を開けると、見慣れない木目の天井が視界に入った。
医務室だ。
体を起こそうとして、全身の筋肉が軋むように痛むことに気づく。
それは激しい運動の後の疲労に似ていた。
「エヴァさんは……」
掠れた声が、自分の喉から出たものだと認識するのに数瞬を要した。
「隣の部屋で眠っている。あんたが離れないから、ベッドごと運んだ」
部屋の隅の椅子に腰掛けていた影が、静かに答えた。
オーギュストだった。
彼は腕を組み、夜の闇と同じ色の瞳でリリスを真っ直ぐに見つめている。
その視線には、探るような色も、憐れむ色もない。
ただ事実を観察する者のそれであった。
リリスは彼の言葉に安堵し、強張っていた肩から力が抜けた。
エヴァは無事だ。
その事実が、混沌とした思考の中で唯一の確かな錨だった。
「少し歩けるか」
オーギュストが立ち上がる。
それは問いかけの形をしていたが、拒否を許さない響きを持っていた。
リリスは無言で頷き、ゆっくりと寝台から足を下ろした。
身に纏っているのは、オーギュストから与えられた分厚いマント一枚だけだ。
素足が冷たい石の床に触れる。
オーギュストは先導して歩き出し、リリスはその後を黙って追った。
ギルドホールを抜け、石の階段を下りていく。
ひんやりとした空気が肌を撫で、地下特有の湿った匂いが鼻をついた。
たどり着いたのは、ギルドの最下層にある巨大な焼却炉の前だった。
赤々と燃える炎が、分厚い鉄の格子越しに、二人の顔を不気味に照らし出している。
「昨夜、俺は見た」
オーギュストは、炉の炎から目を離さずに言った。
「お前の腕が茨に変わり、男たちが花を咲かせて死んでいく様を。そして、その全てが光の粉になって消えるところも」
彼は感情を排した声で、ただ目撃した事実を羅列した。
非難も、恐怖も、驚愕も、そこにはない。
リリスはマントの縁を強く握りしめた。
彼女の罪が、そのおぞましい力が、今、断罪される。
*化け物。人殺し。*
そう罵られることを覚悟し、身を固くした。
だが、オーギュストの口から発せられた言葉は、彼女の予想を完全に裏切るものだった。
「いい力だ」
彼は初めてリリスの方へ向き直った。
「多くの者が欲しがり、そして持て余す力だ。だが、お前はそれを使った。自分のためじゃない。エヴァを守るために」
「それは呪いではない。お前が何かを守りたいと願う時、その意志に応える刃だ」
彼の言葉は、リリスの心の最も深い部分に突き刺さった。
呪いだと思っていた。
自分は穢れ、怪物になったのだと絶望していた。
しかし、この男は、それを「刃」と呼んだ。
「問題は、その刃がお前自身を斬りつけていることだ。今のままでは、いずれ暴走してお前自身が壊れる。制御する必要がある」
オーギュストはリリスの目を見据え、続けた。
「俺がその方法を教えてやる。だが、その前にやることがある」
オーギュストは、リリスが纏うマントを指さした。
「それを脱げ。下に着ている汚れた服も、全てだ」
リリスの体が硬直する。
衣服の下にあるのは、昨夜の屈辱の記憶そのものだ。
それを人前で晒すことへの抵抗が、彼女の動きを縛った。
「昨日の夜、お前は死んだ」
オーギュストの声は、冷たく、そして揺るぎなかった。
「奴隷だったリリスも、凌辱された女も、化け物になった少女も、全てあの街道で死んだ。今ここにいるのは、これからを生きるギルドの一員だ。死人の服を着ていては、前には進めん」
彼は鉄の棒で焼却炉の扉をこじ開けた。
ゴウ、と熱風が吹き荒れ、リリスの銀髪を激しく揺らす。
「捨てろ。過去の全てを、その炎で燃やし尽くせ」
リリスはしばらくの間、燃え盛る炎とオーギュストの顔を交互に見ていた。
やがて、彼女は決意を固め、震える指でマントの留め金を外した。
マントが床に落ちる。
次に、その下に着ていた、引き裂かれ、汚れた衣服に手をかけた。
布地に染み付いた血と体液の痕跡が、再び脳裏に焼き付く。
リリスは唇を噛み締め、その忌まわしい残骸を体から引き剥がすと、両手で抱え、炎の中へと投げ込んだ。
布は一瞬で炎に呑まれ、黒い煙を上げて灰になった。
リリスは、裸のまま、その光景をただじっと見つめていた。
涙は出なかった。
炎が、彼女の代わりに全てを焼き尽くしてくれた。
「来い」
オーギュストはリリスに背を向け、再び歩き出した。
連れて行かれたのは、地下の洗い場だった。
壁に取り付けられた蛇口からは、冷たい井戸水が絶えず流れ落ちている。
「体を清めろ。汚れも、記憶も、全て洗い流せ」
リリスは命令に従い、冷たい水の奔流の下に身を置いた。
水は、骨の髄まで凍えさせるほど冷たかった。
だが、その痛みが、自分が今を生きているという感覚を呼び覚ました。
彼女はゴシゴシと、肌が赤くなるまで体を擦った。
屈辱の痕跡を消し去るように。
男たちの感触を剥ぎ取るように。
やがて、オーギュストが新しい衣服の束を無造作に置いた。
それは、ギルドの誰もが着ている、丈夫な布地で作られた簡素な作業着だった。
リリスは体を拭き、その作業着に袖を通した。
サイズは少し大きかったが、清潔で、固い布の感触が心地よかった。
洗い場の隅には、ひび割れた姿見が立てかけてあった。
リリスは、おそるおそるその前に立つ。
鏡に映っていたのは、見知らぬ少女だった。
銀色の髪は濡れて肌に張り付き、瞳は深く、底が見えない。
だが、その顔に奴隷の卑屈さはなく、被害者の絶望もなかった。
そこにあったのは、硬質な決意を秘めた、一人の人間の顔。
ギルドの一員としての、自分の顔。
リリスは鏡の中の自分から目を逸らさなかった。
強く、あろう。
美しく、あろう。
大切なものを二度と失わないために、この力を。




