表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/188

居場所へ

雨脚が弱まり、雲の裂け目から青白い月光が漏れ始めた街道に、重い足音が近づいてきた。


リリスは反射的に体を強張らせ、エヴァを背に庇うように動こうとした。


殺戮の衝動は収まったものの、神経は未だ張り詰めた糸のようであった。


泥と闇の中から現れたのは、巨躯の男だった。


顔には歴戦の証たる深い傷跡が刻まれ、その瞳は鋭く、しかし今は静かな光を宿している。


「……マスター」


エヴァが安堵の息と共に、その男の名を呼んだ。


「リリス、大丈夫よ。……この方は、私たちのギルドの長、オーギュストさん」


リリスはその名を反芻し、男を見上げた。


彼が、エヴァさんが信頼を寄せる人物。


かつて自分たちを逃がすために盾となってくれた人。


しかし、リリスは言葉を発することができなかった。


喉が引き攣り、どう振る舞えば良いのか分からなかったのだ。


オーギュストは無言のまま、リリスの前に立った。


彼の視線は、リリスの顔ではなく、その身に纏う衣服へと注がれた。


そこには、戦闘による泥汚れだけでなく、もっとおぞましい痕跡が刻まれていた。


引き裂かれた布地。


こびりついた白濁した液体。


そして、赤黒く乾き始めた血痕。


たとえリリスの肌が触手の力で再生し、白磁の輝きを取り戻していても、彼女がその身で受けた屈辱の事実は、衣服という外面に残酷なまでに記録されていた。


オーギュストの眉間が、苦渋に歪む。


彼は何も聞かなかった。


ただ、自身の肩から厚手の防水マントを外し、それを大きく広げた。


バサリ。


重く温かい布が、リリスの頭から被せられた。


世界から、そして彼女自身から、その惨めな痕跡を隠すように。


「……風邪をひく」


短く、低い声。


それは命令のようでありながら、不器用な労わりに満ちていた。


リリスはマントの縁を強く握りしめた。


布越しに伝わる体温と、雨と鉄の匂いが、震える体を包み込んだ。


「リリスッ! エヴァッ!!」


さらに後方から、地響きのような叫び声が轟いた。


小柄ながら岩のように頑強な影が、泥を跳ね上げて走ってくる。


ドワーフの鍛冶師、ギルダであった。


彼女は二人の姿を認めると、勢いよく滑り込み、リリスの肩を掴んで揺さぶった。


「馬鹿野郎がッ! 一人で飛び出しやがって……! 死にたがりか、お前はッ!」


ギルダの怒声が夜の街道に響く。


その手は痛いほどに強く、そして小刻みに震えていた。


リリスがマントの下で縮こまると、ギルダの表情がくしゃりと歪んだ。


「……無事で、よかった……本当に……」


太い指がリリスの頭を乱暴に、しかし愛おしげに撫で回す。


「生きてて、よかった……」


ギルダの目から大粒の涙が溢れ、赤銅色の髭を濡らした。


リリスはその温もりに触れ、再び目頭が熱くなるのを感じた。


叱責されることすら、今は心地よかった。


自分は心配される価値のある存在なのだと、彼女の涙が教えてくれていたからだ。


「感傷に浸る時間は後だ。エヴァの状態は?」


オーギュストが冷静さを取り戻し、エヴァの傍らへ膝をついた。


エヴァは苦笑を浮かべ、力なく首を振った。


「すみません……魔力が底をついてしまって。自己治癒も、追いつきません」


左足は不自然な方向に曲がり、赤黒く腫れ上がっている。


激痛による脂汗が、雨水と共に彼女の顔を濡らしていた。


「歩ける状態じゃねえな」


ギルダが鼻を啜り上げ、涙を袖で乱暴に拭った。


「よし、担架を作るぞ。オーギュスト、剣を貸しな」


ギルダの手際によどみはなかった。


オーギュストの予備の剣と、周囲に落ちていた盗賊たちの槍の柄を組み合わせ、マントやロープで固定していく。


リリスもおずおずと手を貸した。


結び目を作る指はまだ震えていたが、それでもエヴァのために動けることが嬉しかった。


「……こう、ですか?」


「ああ、そうだ。上手いじゃねえか」


ギルダがニカリと笑い、リリスの頭をポンと叩いた。


即席の担架にエヴァを乗せ、オーギュストとギルダが前後を担ぎ上げた。


リリスはその横に寄り添い、エヴァの手を握った。


「帰ろう。俺たちのギルドへ」


オーギュストの号令と共に、一行は歩き出した。


雨は完全に止み、雲の切れ間からは満天の星空が顔を覗かせていた。


リリスは、オーギュストの背中と、ギルダのたくましい足取り、そして担架の上で安らかに目を閉じるエヴァを見つめた。


マントの下の服はまだ汚れている。


過去の傷も、犯した罪も、消えることはない。


けれど、握りしめた手の温もりだけは、確かな現実だった。


リリスは一歩、また一歩と、泥濘んだ道を踏みしめた。


それは地獄からの逃走ではなく、居場所への帰還であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ