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あくまでも家族

雨音だけが支配する静寂の中、エヴァの肩が小刻みに跳ねた。


彼女の視界を埋め尽くすのは、真紅のバラと化した人間の残骸。


そして、その中心で返り血一つ浴びずに跪く、異形の腕を持つ少女。


生理的な嫌悪と恐怖が、脊髄を駆け上がる。


だが、エヴァは奥歯を噛み締め、泥にまみれたその身を引きずった。


折れた左足に激痛が走り、汗が滲む。


それでも彼女は止まらなかった。


目の前の少女が流した涙。


その一粒が、彼女が人間であることを証明していたからだ。


「……あ……」


リリスが短く声を漏らす。


彼女は視線を彷徨わせ、後ずさろうとした。


自分の腕は、人を食らう茨。


触れれば、この優しい人を傷つけてしまう。


汚れた自分が、これ以上近づいてはいけない。


しかし、エヴァの手は躊躇いなく伸びた。


泥と血で汚れたその指先が、リリスの白磁のような頬に触れる。


温かい。


リリスの瞳が見開かれ、呼吸が止まった。


「……ッ」


エヴァは指の腹で、リリスの目尻から伝う雫を拭い取った。


「怖かった……本当に、怖かったわ……」


エヴァの声は震えていた。


だが、彼女は痛みを堪えて上体を起こし、リリスの細い体を正面から抱きしめた。


リリスの顔が、泥と雨の匂いがするエヴァの胸に埋まる。


「でも……姿が変わっても、あなたはリリスよ。……私の、大切な家族だわ」


その言葉は、冷え切ったリリスの胸郭の内側を、熱い塊で満たした。


殺戮の罪悪感も、怪物化した絶望も、消えることはない。


だが、この温もりがある限り、自分はまだこちらの側にいられる。


リリスは嗚咽を漏らし、恐る恐る、エヴァの背中に身を預けた。


心の安定は、肉体の変異にも影響を及ぼした。


ズズズ、という湿った音が響く。


リリスの両腕を形成していた太い茨の束が、蠢きながら収縮を開始した。


「ぐ……っ!」


リリスが苦痛に顔をしかめる。


突き破った皮膚の下へ、筋肉の隙間へ、骨の髄へと、植物の根が強引に戻っていく。


逆再生されるような不快な感覚と激痛。


だが、エヴァは腕を緩めず、リリスの背中を優しく撫で続けた。


数秒の後、そこには、以前と変わらぬ白く細い、少女の両腕が戻っていた。


リリスはエヴァの体から身を離し、周囲を見渡した。


累々と重なる死体と、咲き誇るバラ。


この惨状をそのままにしてはおけない。


彼女は息を整え、ゆっくりと立ち上がった。


雨に濡れた銀髪をかき上げ、冷徹さを取り戻した瞳で、自らが生み出した地獄を見下ろす。


唇が紡ぐのは、弔いではなく、隠滅のための言葉。


「咲き誇る赤よ、刹那の夢と散れ」


「肉を糧とせし罪深き根よ」


「我がめいに従い、塵へと還れ――【凋落ちょうらく】」


世界が揺らいだ。


死体から生えていた無数のバラが一斉に枯れ、崩壊する。


花弁は細かな粒子となり、茎も根も、苗床となった死体ごと、金色の光る粉末へと変換された。


夜風が吹き抜ける。


大量の光の粉が、雨粒と混じり合いながら、夜の闇へと溶けていく。


死臭も、血の臭いも、甘い花の香りも、すべてが洗い流された。


後には、ただ泥濘んだ街道と、持ち主を失った剣や衣服だけが残された。


リリスは振り返り、再びエヴァの前に跪いた。


そして、今度は人間の手で、エヴァの手を握りしめた。


「……行きましょう、エヴァさん」


「ええ……」


エヴァはリリスの手を握り返す。


その握力は強く、互いの骨が軋むほどだった。


二人の間には、もはや庇護者と被保護者という関係だけではない、血と罪を共有した共犯者としての絆が結ばれていた。


その様子を、数メートル離れた場所から見つめる影があった。


オーギュストである。


彼は雨に打たれながら、凄惨な現場が美しい光の粒子となって消え失せる様を、無言で見届けていた。


掛けるべき言葉は見つからない。


ただ、二人が地獄を潜り抜け、戻ってきたことだけは確かだった。


彼は深く息を吐き出し、ゆっくりと二人の方へ歩み出した。

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