化け物
サラスの石畳を叩く雨音は、絶え間なく続く行軍の足音に似ていた。
オーギュストは、ずぶ濡れのマントを肩で揺らしながら、重厚な鉄の扉を押し開けた。
蝶番が悲鳴を上げ、暖かな光と酒の匂い、そして汗臭い熱気が、冷え切った夜気へと流れ出す。
共和国での激戦。
ギルドの崩壊。
部下たちを逃がすため、殿軍として戦い重傷を負った彼は、周囲の心配をよそに入院生活を耐え抜いた。
そして今、ようやく国境を越え、こここそが、辿り着いたはずの安息の地だった。
しかし、彼の眼光は安らぎを求めず、ただ鋭く室内を巡った。
「ギルダはどこだ。エヴァと、あの嬢ちゃんは」
低い、地を這うような問いかけに、喧騒が一瞬だけ静まった。
カウンターに座る顔なじみの受付嬢が、青ざめた顔で首を振る。
「マ、マスター……ギルダさんは資材の調達で、昨日から……」
「エヴァたちは?」
「それが……夕方過ぎに、急患だという男が来て……近隣の村で疫病だと……」
オーギュストの眉間が深く刻まれた。
疫病。
この雨季に、この地域で、突発的な疫病など聞いたことがない。
彼は無言でカウンターへ歩み寄り、依頼記録の羊皮紙を乱暴に引き寄せた。
指先が、インクの滲んだ走り書きの上を滑る。
震える文字。
矛盾した症状の記述。
そして、依頼人の署名欄にある不自然な空白。
「……臭うな」
それは、古傷が疼くような、戦場で何度も嗅いだ死と罠の臭いであった。
「おい、そこの」
オーギュストは近くで酒を飲んでいた冒険者の胸倉を掴み上げた。
「その依頼人、どんな奴だった」
「あ、ああ……! 泥だらけで、必死そうで……でも、目が笑ってたって、誰かが……」
「どっちへ行った」
「街道だ! 北の街道へ向かったはずだ!」
手を離すと同時に、オーギュストは踵を返した。
疲労は骨の髄まで染み込んでいる。
筋肉は悲鳴を上げている。
だが、胸中で警鐘を乱打する予感が、彼を突き動かした。
エヴァの純粋すぎる善意と、リリスという不安定な爆弾。
それらを狙う悪意が、この街にも潜んでいる。
「チッ……間に合えよ!」
再び雨の中へ飛び出す。
泥濘がブーツを掴み、冷たい雨が視界を遮る。
オーギュストは咆哮し、身体強化の魔力を脚部に集中させた。
石畳を蹴り砕き、泥を跳ね上げ、風を切り裂いて疾走する。
心臓の鼓動が、雨音よりも大きく耳元で響く。
嫌な予感が確信へと変わっていく。
風に乗って漂ってくるのは、雨の匂いではない。
鉄錆のような血の臭いと、むせ返るほど濃厚な、甘く危険な花の香り。
街道のカーブを曲がった瞬間、オーギュストの足が止まった。
いや、止めざるを得なかった。
眼前に広がる光景は、戦場でも、地獄でもなかった。
それは、狂気によって丹念に手入れされた、悪夢のような庭園だった。
闇夜に赤く発光するかのような、無数の真紅のバラ。
それらは地面からではなく、累々と重なる盗賊たちの死体から直接生え、咲き誇っている。
人間の形をした苗床。
苦悶の表情を浮かべたまま花に侵食された顔。
幹となった手足、根となった内臓。
かつて人間だったモノたちが、今はただ、美しくもおぞましい花畑の一部として静止していた。
そして、その地獄の中心。
泥と血の養分を吸い上げ、この世の者とは思えぬほど白く、清浄な姿で佇む少女。
リリス。
だが、その両腕はあるべき人の腕ではなく、太く脈打つ茨の束となり、先端からはポタポタと赤い雫を垂らしている。
彼女は、泥に座り込むエヴァの頬に、その異形の腕を優しく添えていた。
慈愛と狂気が同居する、完成された絵画のような光景。
オーギュストは息を呑み、雨に打たれることも忘れて、その圧倒的な「異質」を見つめ続けた。




