裏切られた約束
雨は激しさを増し、泥濘は白濁した液体と血で汚れていた。
リリスは四つん這いのまま、荒い息を吐きながら顔を上げる。
髪は乱れ、白い肌には無数の痣と噛み跡が刻まれ、口端からは涎と白い泡が垂れている。
全身の筋肉が痙攣し、意識が飛びそうなほどの疲労と苦痛が体を支配していた。
それでも、彼女は虚ろな瞳にわずかな光を灯し、目の前の男、ボルコフを見上げた。
リリスは震える膝を引きずり、ボルコフの泥だらけのブーツに額を擦り付けた。
「……約束……守って……ください」
声は枯れ、喉から血の味がする。
「私……これからは、あなたのものです。……ずっと、奴隷として……何でもします。道具として、使い潰していい……だから」
彼女は視線を横に向けた。
そこには、絶望の表情で涙を流し続けるエヴァがいた。
足は砕かれ、泥にまみれ、それでもリリスを見つめ続けている聖女。
「エヴァさんを……逃がして。……お願い」
リリスは懇願した。
自分の尊厳など、とっくにドブに捨てた。
残されたのは、この命を対価にした、たった一つの願いだけだった。
ボルコフは、足元の少女を見下ろし、満足げに鼻を鳴らした。
彼はしゃがみ込むと、リリスの濡れた髪を掴み、強引に顔を上げさせた。
「ああ、よかったぜ。お前の技術も、その心意気もな」
リリスの瞳に、微かな期待が宿る。
「じゃあ……」
「だがな」
ボルコフの唇が歪み、残酷な弧を描く。
「約束ってのは、破るためにあるんだよ。特に、お前らみたいな虫ケラ相手にはな」
リリスの思考が凍りついた。
言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
「……え?」
「俺が欲しいのは、ただの肉体じゃねえ。……絶望だ」
ボルコフはリリスの髪を掴んだまま、顔を近づけ、低い声で囁いた。
「お前が必死に守ろうとした希望も、尊厳も、何もかも粉々に砕け散る様が見たいんだよ。……おい、お前ら」
彼は背後の部下たちに顎で合図を送った。
「次は聖女様だ。たっぷり可愛がってやれ。目の前のこの商品が、泣いて許しを請うくらいにな」
盗賊たちが、下卑た笑い声を上げてエヴァに群がる。
「やめ……いやっ!!」
エヴァの悲鳴。
衣類が引き裂かれる音。
白い肌が露わになり、泥で汚される。
広げられようとしている光景は、過去のどんな肉体的な痛みよりも鋭く、深く、リリスの魂を抉り取った。
リリスの目の前で、世界が音を立てて崩れ落ちた。
自分がどれだけ耐えても、どれだけ尊厳を捨てても、何も守れない。
希望も、祈りも、この理不尽な悪意の前では、何の意味もなさない。
自分の犠牲は無意味だった。
自分の献身は、ただの道化芝居だった。
守りたかった唯一の光が、自分の目の前で、最も穢れた方法で踏みにじられようとしている。
「あ……ああ……」
リリスの口から、言葉にならない空気が漏れる。
それは、「煤の底」で何十回、何百回と繰り返された凌辱の記憶よりも、遥かに深く、鋭く、魂を切り刻む痛みだった。
自分の体を犯される痛みなど、これに比べれば痒みにも等しい。
エヴァが泣いている。
エヴァが叫んでいる。
あの優しい人が、あの清らかな人が、獣たちの餌食になっている。
ドクン。
心臓が破裂しそうなほど脈打った。
「やめてえぇぇっ!! 神様、助けて!! 」
エヴァの絶叫が、リリスの理性の最後の糸を断ち切った。
(殺す。)
(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。)
その純粋で強大な憎悪に呼応するように、彼女の両腕の奥底で眠っていた「種」が、ついに殻を破った。
バキリ、という湿った音が、彼女の体内から響いた。
それは、骨が砕ける音ではなく、新たな「器官」が、ヒトの肉体を食い破って誕生する産声だった。
同時に、両手の奥底で眠っていた「それ」が、かつてないほどの勢いで暴れ出した。
熱い。
痛い。
血管の中を、煮えたぎる鉛が流れるようだ。
皮膚の下で、茨が肉を突き破り、骨を砕き、外へ出ようと狂ったように蠢く。
リリスは自分の両手を凝視した。
手の甲が不自然に隆起し、皮膚が裂け、赤い血と共に、どす黒い緑色の「何か」が顔を覗かせていた。
ボルコフが、リリスの異変に気づき、眉を顰める。
「あ? なんだ、その手は……」
リリスは、もはや痛みを感じていなかった。
あるのは、世界を焼き尽くすほどの、純粋で、冷酷な殺意だけ。
彼女は、裂けた唇で、呪詛のような言葉を紡いだ。
「…殺す」




