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お花が足りないんだね?

リアムの言葉は、冷酷な真理の刃となってゼノンの胸を貫いた。


魔族は敵、その子供もまた敵。


それは、彼が帝国騎士として、その魂に刻み込んできた不文律であった。


だが、彼の目の前で、差し出された一輪のバラを手に、ただ無垢に微笑む少女の姿は、その鉄の掟を根底から揺さぶる。


正義と義務、憐憫と憎悪、それら相反する感情の奔流が、彼の内で激しく渦巻き、その精神を軋ませていた。


マダム・ロザリアの計算高い視線が、アイリスの絶望に凍り付いた表情が、そしてリアムの痛みを堪える横顔が、この場の空気を鉛のように重く、息苦しいものへと変えていた。


子供は、大人が発する言葉の意味を理解できずとも、その奥に潜む感情の不和を、肌で感じ取るものだ。


リリスの澄んだ瞳は、目の前の美しい鎧の人形が、ひどく悲しい顔をしているのを映し出していた。


先ほどまでの、部屋を満たしていた険悪な雰囲気。


それは、彼女の知る「バラ園」の日常には存在しない、異質な響きを持っていた。


なぜみんな、そんなに難しい顔をしているのだろう。


お花をあげたのに、どうして喜んでくれないのだろう。


純粋な善意が、理解されないことへの素朴な困惑へと変わる。


*そうだ、お花が足りないんだ。一人だけじゃ、みんな仲良くなれないんだ。*


その単純な結論に達したリリスは、踵を返すと、再び部屋の隅の花瓶へと駆け寄った。


そこには、朝露に濡れたばかりの、色とりどりの花々が活けられている。


彼女は、その中から純白の百合と、淡い青紫の桔梗を慎重に選び取った。


そして、その小さな両手に二つの花を抱え、再び三人の訪問者の元へと戻った。


彼女の動きには、いかなる躊躇も、打算も存在しない。


ただ、この凍り付いた空気を、自分の知っている温かいものに戻したい、その一心だけであった。


リリスはまず、軽薄な笑みの下に深い哀しみを隠している牧師、リアムの前に立った。


そして、その小さな背丈を精一杯伸ばし、純白の百合を彼に差し出した。


「おにいちゃんも、どうぞ」


リアムは、その差し出された花と、少女の曇りない瞳を前にして、一瞬、言葉を失った。


彼はいつも、世界の残酷さや不条理を、冗談と皮肉の仮面で覆い隠してきた。


しかし、この少女の絶対的な無垢さは、彼の幾重にも重ねた心の壁を、いとも容易く透過し、その最も柔らかな部分に触れた。


*ああ、神よ。もしあなたが本当に存在するのなら、なぜこのような場所に、これほどの光を置かれたのですか。それは、我々の罪を照らし出すためですか、それとも、我々の無力さを嘲笑うためですか。*


彼の脳裏に、戦場で散っていった無数の命が、故郷を追われた人々の嘆きが、そして救うことのできなかった者たちの顔が、走馬灯のように駆け巡る。


この少女もまた、いずれはその理不尽な運命の歯車に、否応なく巻き込まれていくのだろう。


その想像は、リアムの胸を、耐え難いほどの哀れみと無力感で満たした。


彼は、震える指でそっと百合の花を受け取ると、その顔から全ての表情を消し、ただ黙って俯いた。


次に、リリスは、氷の彫像のように佇むエルフの魔導師、フィオナの前に進み出た。


彼女は、この銀髪の「おねえちゃん」が、自分を一番怖い顔で見ていたことを知っていた。


だからこそ、彼女には一番綺麗だと思った桔梗の花を渡したかった。


「おねえちゃんにも、あげる」


フィオナは、目の前に差し出された青紫の花を、ただ無感動に見下ろしていた。


彼女の血は、魔族への憎悪で燃え盛っている。


彼女の心は、同胞を失った復讐の誓いで凍てついている。


この少女は、その憎むべき魔族の血を引く存在。


穢れた、根絶すべき敵の一片。


そう、頭では理解している。


彼女の理性は、この花を叩き落とし、この少女を侮蔑の目で見据えるべきだと命じている。


*なぜだ。なぜ、この手が動かない。なぜ、この子供の目に、私は同胞を殺したあの魔族たちの顔を重ねることができないのだ。この無垢さは、偽りか?私を惑わすための、巧妙な罠なのか?*


だが、彼女の目の前にいるのは、武装した魔族の兵士ではない。


ただ、純粋な好意から花を差し出す、小さな子供に過ぎない。


その汚れを知らない笑顔は、彼女が長年抱き続けてきた憎悪という名の鎧に、微かな、しかし確かな亀裂を入れた。


彼女が、その花を受け取ることも、拒絶することもできずにいると、リリスは少し首を傾げ、その小さな手で、桔梗の花をフィオナのマントのベルトにそっと差し込んだ。


その意図せぬ接触に、フィオナの肩が微かに震えた。


最後に、リリスは再びゼノンの前に戻ってきた。


彼女は、自分が最初にあげた赤いバラを、彼がまだ固く握りしめているのを見て、満足そうににっこりと笑った。


その笑顔は、まるで「これでみんな仲良しだね」と語りかけているかのようだった。


その笑顔は、ゼノンにとって、何よりも残酷な刃であった。


この少女は、自分たちが何者で、この場にどのような緊張をもたらしているのか、何も理解していない。


彼女はただ、善意で、この歪んだ状況を修復しようとしているだけなのだ。


その純粋さが、この場所の異常さを、マダム・ロザリアの非道さを、そして自分たちの立場の矛盾を、より一層際立たせる。


騎士として、彼は弱者を守るべきである。


しかし、帝国の兵士として、彼は魔族を討つべきである。


この少女は、その両義性の狭間で、彼に究極の問いを突きつけていた。


彼は、自分が握りしめていた槍の柄が、手のひらに食い込むほどの痛みを感じていた。


己の無力さに対する怒り。


この世界の不条理に対する憤り。


そして、この少女の運命に対する、どうしようもない憐憫。


それら全てが、彼の喉を締め付け、言葉を奪う。


彼はゆっくりと片膝をつき、少女と視線の高さを合わせた。


その瞳には、深い葛藤と、言いようのない哀しみが宿っていた。


「…ありがとう」


その言葉は、純粋な善意に対する、偽らざる感謝であった。


彼は、少女の小さな手から、赤いバラをそっと受け取った。


「そして…ごめんなさい」


その言葉は、この少女を救うことができないであろう、己の無力さに対する謝罪であった。


それは、これから彼女が辿るであろう過酷な運命を前に、何もできずにただ立ち尽くすことしかできない、一人の男としての、痛切な懺悔の声であった。


リリスは、その言葉の深い意味を理解することはなく、ただ、悲しい顔をしていた鎧の人形が、自分に「ありがとう」と言ってくれたことが嬉しくて、花が綻ぶように笑った。


その笑顔が、ゼノンの心を、さらに深く抉るのだった。



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