表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/171

錯覚、ではない

その夜、リリスは眠れずにいた。


月の光が、窓の格子を床に黒く落としている。


簡素なベッドの上で、彼女は毛布を胸まで引き上げ、暗闇の一点をじっと見つめていた。


ギルダとの過酷な訓練で酷使した体は鉛のように重く、筋肉の節々が熱を持って軋んでいる。


だが、彼女の意識を覚醒させているのは、その肉体的な疲労ではなかった。


*あれは、何だったのだろう。*


目を閉じれば、あの悍ましい感覚が、鮮明に蘇る。


皮膚の下、血と肉のさらに奥深くで、何かが蠢く感触。


自らの意志とは無関係に、内側から肉を食い破り、世界に生まれ出ようとする、制御不能な生命の奔流。


それは、かつて彼女が経験した、いかなる暴力や屈辱よりも根源的で、冒涜的な恐怖だった。


あれは、単なる疲労による幻覚などではない。


あの生々しい脈動は、紛れもない「現実」だった。


*この体は、もう、私のものじゃないのかもしれない。*


その考えが頭をよぎった瞬間、全身の血が凍るような悪寒が走った。


あの流星が、あの地獄の炎の中で触れた虹色の光が、彼女の中に何かを植え付けたのだとしたら?それは、いつか彼女自身の意識を乗っ取り、このようやく手に入れた穏やかな日常を、エヴァやギルダとの絆を、内側から破壊し尽くすのではないか。


*怖い。*


誰にも理解されない。


誰にも相談できない。


この恐怖は、孤独という名の冷たい水の中で、際限なく膨れ上がっていく。


このままでは、狂ってしまう。


その切迫した想いが、彼女をベッドから突き動かした。


頼れる人間は、一人しかいなかった。


この世界で唯一、彼女の存在を無条件に肯定し、その傷ついた魂を抱きしめてくれた人。


その温もりだけが、今、彼女が最後の理性を繋ぎ止めるための、唯一の錨だった。


リリスは、音を立てないよう、幽鬼のような足取りで廊下を進んだ。


ギルドの深夜は静まり返り、遠くで酔い潰れた冒険者のいびきが聞こえるだけだった。


彼女は、エヴァの私室の扉の前で立ち止まり、数度、ためらった。


こんな夜更けに、迷惑ではないだろうか。


自分の身勝手な恐怖で、彼女の安息を妨げてしまうのではないか。


しかし、腕の奥で、あの異物の幻影が再び疼いた気がして、リリスは、震える手で、そっと扉を叩いた。


三度、か細く。


「……どなたですか?」


中から、眠気を含んだ、しかし、穏やかなエヴァの声がした。


その声を聞いただけで、リリスの張り詰めていた緊張の糸が、僅かに緩んだ。


「……リリス、です」


「リリス? どうかしましたか、こんな時間に。どこか具合でも?」


扉が、軋みながら開かれた。


寝間着姿のエヴァが、心配そうな顔でリリスを見つめている。


その背後には、薬草の匂いが満ちた、彼女の静かな世界が広がっていた。


リリスは、言葉を発することができなかった。


ただ、エヴァのその慈愛に満ちた顔を見上げた瞬間、堰を切ったように、瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。


エヴァは、何も言わずに、泣きじゃくるリリスを部屋の中に招き入れ、優しくベッドの端に座らせた。


彼女はリリスの隣に腰を下ろすと、その冷え切った手を、自らの温かい両手で包み込んだ。


「大丈夫。大丈夫ですよ、リリス。何があったのか、話してくれますか?」


エヴァのその静かな声に促され、リリスは、途切れ途切れに、言葉を紡ぎ始めた。


「腕が……腕の、中が……」


「腕が?」


「何かが……いるんです。根っこ、みたいな……。熱くて、痛くて……私の中から、出てこようと……するんです」


その告白は、あまりにも突拍子がなかった。


だが、エヴァは、リリスの表情が、ただの悪夢にうなされた少女のものではないことを見抜いていた。


その瞳の奥には、正真正銘の、魂の恐怖が宿っていた。


「……わかりました。少し、あなたの体を診させてください」


エヴァは真剣な表情になると、リリスの右腕を取り、そっと服の袖をまくり上げた。


現れたのは、傷一つない、雪のように白い、滑らかな肌だった。


「聖なる源流に祈りを、安らぎの光に願いを」


エヴァは、静かに詠唱を始めた。


彼女の掌に、柔らかな、乳白色の光が灯る。


それは、彼女の魔力が具現化した、聖なる治癒の光だった。


「病根を照らし、穢れを祓い、真実の在り処を示したまえ」


光は、リリスの腕に、そっと触れた。


温かい、陽だまりのような光が、皮膚を透過し、筋肉、血管、神経、そして骨の髄まで、優しく浸透していく。


エヴァは全神経を集中させ、リリスの体内に潜む、あらゆる異常を探査した。


呪いの痕跡、寄生生物の卵、悪性の魔力の残滓、あるいは精神に干渉する幻惑魔法。


だが。


数分間の、濃密な沈黙の後。


エヴァは、ゆっくりと、光を収束させた。


彼女の顔には、深い安堵と、そして、当惑の色が浮かんでいた。


「……リリス。あなたの体には、何の異常もありません」


「え……?」


「呪いの類も、病の兆候も、何も。それどころか、あなたの体は、私がこれまで診てきた誰よりも、健康で、清浄な魔力に満ちています。まるで、生まれたての赤子のように……」


エヴァは、心から不思議そうに、首を傾げた。


リリスは、その言葉が信じられなかった。


「でも……あの感覚は……」


「おそらく……」


エヴァは、言葉を選びながら、優しく続けた。


「……最近、慣れない訓練を始めたばかりでしょう? ギルダさんの指導は、特に厳しい。あなたの体は、これまで経験したことのない、極度の疲労状態にあるはずです。そういう時、筋肉の痙攣や神経の昂ぶりが、まるで何か別のものが体内にいるかのような、奇妙な錯覚を引き起こすことがあるのです」


錯覚。


その言葉は、冷たい石のように、リリスの胸に落ちた。


「過去の……辛い経験も、関係しているのかもしれません。あなたの心は、まだ、たくさんの傷を抱えていますから。体が危険信号を発した時に、心が、それを過剰に、恐ろしいものとして認識してしまった……」


エヴァは、そう結論づけると、リリスを安心させるように、その肩を優しく抱いた。


「大丈夫。あなたは、どこもおかしくなんてない。ただ、少し、疲れすぎているだけです。今夜は、ゆっくり、お休みさない」


リリスは、エヴァの腕の中で、こくりと、小さく頷いた。


彼女の言葉を、信じなければならない。


この優しさを、疑ってはならない。


*錯覚……。そう、これは、ただの錯覚なんだ。*


彼女は、自分にそう言い聞かせた。


だが、心の奥底で、冷たい声が囁いていた。


*違う。あれは、本物だ。*


あの、肉を突き破り、世界にその悍ましい姿を現そうとする、意志を持った「何か」の感覚。


それが、ただの錯覚だとは、到底、思えなかった。


エヴァにさえ、理解されない。


その事実は、リリスを、再び、独りぼっちにした。


それは、物理的な孤独よりも、遥かに深く、暗い、絶望的な孤独感だった。


彼女は、エヴァの胸に顔を埋めながら、誰にも見えない暗闇の中で、静かに、震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ