何かが、蠢いてる
リリスはギルドの裏庭で、バルガスに教わった型を一人で反復練習していた。
夕暮れの光が埃っぽい地面を斜めに照らし、彼女の小さな影を長く、心許なく引き伸ばしている。
その手には、バルガスから与えられた冷たい鉄の感触――護身用の短剣が握られていた。
彼女の動きは、ひどくぎこちなかった。
肩に力が入りすぎ、足の運びは不安定で、まるで操り人形のようであった。
それは、恐怖と決意が不格好に混じり合った、悲痛な舞踏であった。
*強くならなければ。*
その想いが、彼女を突き動かす唯一の燃料だった。
皿洗いでも、掃除でも、誰かの世話を焼くことでもない。
自らの「力」で、このようやく手に入れた居場所を守り抜く。
そうでなければ、いつかまた、価値がないと判断され、捨てられる。
その強迫観念が、彼女の腕を、足を、繰り返し、繰り返し、無我夢中に動かしていた。
短剣が空を切る微かな風切り音だけが、彼女の存在を証明するかのように、静かな裏庭に響いていた。
「――見てられんな」
その静寂を破ったのは、低く、不機嫌そうな声だった。
リリスがびくりと振り返ると、そこには鍛冶場から出てきたギルダが、腕を組んで立っていた。
彼女の顔には、呆れと苛立ちが隠しようもなく浮かんでいる。
そのドワーフ特有の鋭い眼光が、リリスの拙い動きの全てを、寸分の狂いもなく見抜いていた。
「なんだその腰の引けた構えは。そんな踊りで、一体何が斬れる? 駆け回る子鼠一匹仕留められんぞ」
ギルダの言葉は、熱した鉄を打ち据える槌のように、重く、辛辣だった。
リリスの肩が、萎縮するように小さくなる。
彼女は、何かを間違えてしまったのだと、罰せられるのだと、反射的に身構えた。
ギルダは、ずかずかとリリスに歩み寄ると、有無を言わさずその手から短剣をひったくった。
小柄なリリスの手に合わせて作られた短剣は、ギルダの太い指の中では、まるで玩具のように小さく見えた。
「いいか、小娘。戦いってのはな、見栄えのいい舞踏じゃねえ。いかに効率よく、相手の息の根を止めるか。それだけだ」
次の瞬間、ギルダの纏う空気が変わった。
それまでの無骨な鍛冶師の気配が消え、歴戦の戦士だけが持つ、冷徹で殺意に満ちたオーラが立ち昇った。
彼女は、その巨躯に似合わぬ、滑るような動きで、体勢を低く沈み込ませた。
「ドワーフの戦い方の基本は、常に重心を地の底に置くことだ。俺たちは背が低い。だからこそ、相手の懐に潜り込み、下から上へ、急所を抉り抜く」
ギルダは、言葉と共に、型を示した。
踏み込みは最小限。
短剣の動きに無駄な軌道は一切ない。
一歩、踏み込むと同時に、仮想の敵の膝を砕き、体勢が崩れた瞬間に、喉笛を切り裂く。
それは、美しさなど微塵もない、ただ、確実に相手を殺すためだけに洗練された、機能美の極致であった。
リリスは、そのあまりにも効率的な殺人術に、息を呑んだ。
「ぼさっとするな! やってみろ!」
ギルダは短剣をリリスに突き返すと、今度は指導者として彼女に向き合った。
「違う! 足の開きが甘い! もっと体重を前に乗せろ!」
「手首だけで振るな、腰の回転を使え! 力は腹の底から捻り出すんだ!」
怒声が、何度も裏庭に響いた。
ギルダは、リリスの腕を掴み、足の位置を蹴って直し、正しい型を体に叩き込んでいく。
その手つきは乱暴で、容赦がなかった。
リリスは何度も体勢を崩し、土に手をついた。
汗が目に入り、視界が滲む。
筋肉が悲鳴を上げ、呼吸は限界に近かった。
だが、不思議と、恐怖はなかった。
ギルダのその厳しい指導の奥底に、彼女は、一つの明確な感情を読み取っていた。
それは、かつて彼女に向けられた、嗜虐的な暴力とは全く異なる、不器用で、無骨で、しかしどこまでも真摯な――「愛情」と呼ぶべきものだった。
*この人は、私を、本気で鍛えようとしてくれている。*
*私が、生き延びるために。*
その事実が、肉体の疲労を凌駕する、熱い力を彼女に与えた。
リリスが、ギルダに命じられるまま、踏み込んで突きを繰り出す動作を繰り返していた、その時だった。
ドクン、と。
また、あの感覚が来た。
今度は右腕だけではない。
短剣を握る両の腕の、その奥深くから、何かが蠢き、目覚めようとしていた。
皮膚の下で、無数の茨の根が、血管に絡みつき、肉を突き破って外へ伸びようとする、悍ましい生命の胎動。
「ぐ……っ!」
リリスは、思わずうめき声を漏らし、その場に膝をついた。
腕が、内側から引き裂かれるような、灼けるような痛みに襲われる。
その感覚は、先日バルガスとの訓練で感じたものよりも、遥かに強く、鮮明だった。
*痛い。熱い。何かが、出てくる……!*
視界が、ぐにゃりと歪む。
短剣を握る掌から、汗ではない、ぬるりとした何かが滲み出しているような錯覚。
それは、彼女自身の魔力なのか、それとも、あの流星がもたらした呪いなのか。
「どうした! もう根を上げたか!」
ギルダの叱咤が、朦朧とする意識を現実に引き戻した。
彼女は、リリスの顔色の悪さと、尋常ではない汗の量に気づいたが、それを過酷な訓練による極度の疲労と筋肉の限界だと判断したようだった。
「……ちっ。情けねえな。まあ、初日としちゃ、上出来すぎるくらいか」
ギルダは舌打ちを一つすると、リリスの肩を掴んで強引に立ち上がらせた。
「今日の稽古はここまでだ。だが、戦士の仕事は戦うだけじゃねえ。自分の命を預ける相棒の手入れも、重要な仕事だ。来い」
ギルダはそう言うと、リリスを鍛冶場の一角へと連れて行った。
そこには、手入れ用の様々な道具――砥石、油、革、そして柔らかな布が、整然と並べられていた。
「いいか、武器はただの鉄の塊じゃねえ。お前の命を肩代わりしてくれる、相棒だ。感謝を込めて、毎日磨け。傷の一つ、錆の一片が、お前の命取りになる」
ギルダは、手本を見せながら、武器の手入れの手順を丁寧に教えた。
布に油を染み込ませ、刃の血脂を拭い、砥石で刃こぼれを修正し、最後に鞘に収めるまでの一連の所作。
リリスは、言われるがままに、見よう見まねで自分の短剣を磨き始めた。
冷たい金属の感触。
油の独特の匂い。
布が刃の上を滑る、規則正しい摩擦音。
その単純で、静かな作業に没頭するうち、腕を苛んでいたあの悍ましい異物感と熱は、いつの間にか潮が引くように薄れていった。
精神が、目の前の作業に集中することで、肉体の異常を意識の外へと追いやったのだ。
短剣は、彼女の手によって、新品同様の輝きを取り戻した。
だが、リリスの心の中には、安堵とは程遠い、新たな恐怖が、深く、冷たく、刻み込まれていた。
*私のこの体は、一体、どうなってしまったのだろう。*
自分の意志とは無関係に、その内側で蠢く、未知なる「何か」。




