「おい、来い。チビ」
バルガスの左肩の傷は、エヴァの聖なる光と、リリスの献身的な介護によって、驚異的な早さで塞がっていた。
包帯が取れたその日、彼はリリスが厨房で皿を洗っている最中に乗り込んできた。
そして、泡だらけの彼女の手を無造作に掴むと、問答無用で街へと連れ出したのである。
「おい、来い。チビ」
リリスは濡れた手をエプロンで拭う暇もなく、巨漢の斧使いに引きずられるようにして石畳の通りを歩いていた。
通り過ぎる人々が、熊と兎のような奇妙な組み合わせを振り返る。
リリスは、かつてのように首輪をつけて引かれているわけではないと頭では理解していたが、手首を掴むバルガスの大きく熱い掌の感触に、反射的に体を強張らせていた。
「……バルガスさん、どこへ……?」
「黙ってついてこい。礼だ」
バルガスは短く答えると、大股で歩き続けた。
彼らが立ち止まったのは、鉄と油の匂いが漂う、古びた武器屋「黒鉄の牙」の前だった。
店内には、剣、槍、斧、鎧といった殺傷の道具が所狭しと並べられていた。
その冷ややかな金属光沢に、リリスは思わず身を縮める。
彼女にとって、これらは常に「自分に向けられるもの」であり、「自分が持つもの」ではなかったからだ。
「親父、いいダガーはあるか。軽くて、丈夫で、こいつの細腕でも扱えるやつだ」
バルガスがカウンターの向こうの髭面の店主に声をかける。
店主は片眼鏡の奥の鋭い目をリリスに向け、鼻を鳴らした。
「……冒険者には見えんがな。護身用か?」
「ああ。最近、変な輩がうろついてるって噂もあるしな。自分の身くらい、自分で守れねえとな」
バルガスはそう言いながら、棚から一本の短剣を取り出し、リリスの手に押し付けた。
それは、刃渡り二十センチほどの、飾り気のない実用的な短剣だった。
柄には滑り止めの革が巻かれている。
リリスの手にはずしりと重く、その冷たさが掌を通して心臓まで伝わってくるようだった。
「……これを、私に?」
「そうだ。皿洗いがいくら上手くても、魔物や悪党は皿じゃあ退治できねえからな」
バルガスは、にやりと笑った。
その笑顔は粗野だが、そこには以前のような嘲笑の色はなかった。
「いいか、リリス。ギルドにいる以上、いつまでも誰かの背中に隠れてるわけにはいかねえ。エヴァさんやギルダの婆さんがいねえ時、誰がお前を守る? お前自身だ」
リリスは、渡された短剣を見つめた。
磨かれた刃に、自分の顔が映っている。
怯えた、無力な少女の顔。
だが、その手には今、微力ながらも「牙」が握られている。
バルガスは代金をカウンターに叩きつけると、再びリリスの背中をバンと叩いた。
「行くぞ。使い方も知らねえんじゃ、ただの鉄屑だ」
場所は、ギルドの裏手にある、人の来ない静かな空き地へと移った。
夕陽が建物の影を長く伸ばし、埃っぽい地面を赤く染めている。
バルガスは手近な木の枝を拾い、リリスに向き合った。
「まずは構えだ。足を開け。腰を落とせ。そうだ、ナイフは順手でも逆手でもいいが、初心者は逆手の方が防ぎやすいかもしれねえな」
彼は手取り足取り、リリスの体を動かして型を教える。
その教え方は決して丁寧ではなく、むしろ乱暴ですらあったが、不思議と嫌悪感はなかった。
彼の言葉には、実戦で生き延びてきた者特有の、重みと真実が含まれていたからだ。
「相手を殺そうとするな。殺す気で来やがったら、逃げるための隙を作るんだ。目を狙うか、股間を蹴り上げるか、指を切り裂くか。汚え手でもなんでも使え。生き残った方が勝ちなんだよ」
リリスは必死にバルガスの動きを真似た。
短剣を振るうたびに、空気が微かに鳴る。
自分の意志で、何かを排除しようとする動き。
それは彼女の体にとって、未知の体験だった。
「そうだ、その調子だ。もっと腰を入れろ!」
バルガスの太い枝が、リリスの短剣を弾く。
手が痺れる。
息が上がる。
だが、リリスは歯を食いしばって立ち続けた。
自分を守る。
その概念が、筋肉の痛みと共に、少しずつ彼女の中に浸透していく。
十数分ほど打ち合い(といっても一方的な防戦だが)を続けた頃だった。
リリスがバルガスの枝を受け流そうと、短剣を握る右手に力を込めた瞬間。
ドクン。
心臓ではない場所で、奇妙な脈動が起きた。
それは、右腕の筋肉の奥深く、血管よりもさらに深い場所だった。
まるで、皮膚の下に細い蛇が潜り込んだような、あるいは、植物の根が肉を食い破って伸びようとするような、ぬるりとした異物感。
「っ……!?」
リリスは息を呑み、動きを止めた。
熱い。
腕が、焼けるように熱い。
だがそれは火傷の熱さではなく、生命が爆発的に成長しようとする時の、制御できないエネルギーの奔流だった。
視界が一瞬、赤く明滅した気がした。
握りしめた短剣の柄から、目に見えない何かが溢れ出し、彼女の意思とは無関係に、周囲の空気を貪ろうとしているような感覚。
(なに……これ……?)
恐怖。
それは、バルガスや魔物に対する恐怖とは質の違う、自分自身の内側から来る、根源的な恐怖だった。
自分の体が、自分のものでなくなっていくような、得体の知れない感覚。
リリスは短剣を取り落としそうになりながら、左手で右腕を押さえた。
「おい、どうした? 疲れたか?」
バルガスの声で、リリスは我に返った。
脈動は、波が引くように急速に収まっていった。
残ったのは、微かな痺れと、冷や汗だけだった。
バルガスは心配そうに顔を覗き込んでいる。
彼はリリスの異変を、単なる疲労と緊張によるものだと解釈したようだった。
「……無理させすぎたか。まあ、今日はこれくらいにしとくか」
彼は枝を放り投げると、大きな手でリリスの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「悪くねえ筋だ。ビビって目が閉じてねえのがいい。明日は筋肉痛だろうが、まあ、慣れろ」
「……はい。ありがとうございます……バルガスさん」
リリスは乱れた呼吸を整えながら、礼を言った。
右腕をさする。
皮膚の下には、もう何の異常も感じられない。
だが、あの瞬間の、肉を突き破りそうになった「何か」の感覚は、確かに記憶に刻まれていた。
バルガスが先に歩き出す。
リリスは、地面に落ちた短剣を拾い上げ、鞘に収めた。
夕闇が濃くなる空き地で、彼女は自分の右手をじっと見つめた。
ただの、錯覚だろうか。
それとも、あの地獄の炎の中で触れた、あの流星の光が、彼女の中に何かを残したのだろうか。
答えは出ない。
ただ、冷たい金属の柄の感触だけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。




