ギルドの一員に
その羊皮紙は、彼女がこれまでその手に触れた、いかなる物品よりも重かった。
それは、彼女の全存在の重さそのものであったのかもしれない。
リリスは、ギルダから渡されたインクの染みた羽根ペンを、震える指で握りしめた。
彼女の十八年の生涯は、常に他者によって署名され、他者によって所有権を主張される、一枚の羊皮紙に過ぎなかった。
だが、今、目の前にあるこれは違う。
これは、彼女が、彼女自身の意志で、その名を刻むべき、最初の契約書であった。
「リリス」
インクが、羊皮紙の繊維に、じわりと染み込んでいく。
その黒い染みは、彼女の過去の罪と屈辱を全て吸い取り、そして、未来への確かな礎となるかのように、そこにくっきりと定着した。
その署名が終わった瞬間、彼女は正式に、このギルド「鉄槌と坩堝」の一員となったのだ。
ギルダは、その羊皮紙を満足げに受け取ると、いつものぶっきらぼうな口調で言った。
「よし。今日からてめえは、ただの皿洗いじゃねえ。ここの見習いだ。仕事の範囲も広がる。厨房の仕事に加えて、酒場の清掃、武具置き場の整理、依頼に来た連中の伝言番。やれることは何でもやれ。いいな」
「……はい」
リリスは、深く、深く、頭を下げた。
その声には、もはや奴隷の卑屈さではなく、与えられた役割に対する、真摯な責任感が宿っていた。
彼女の新たな日常が、その瞬間から始まった。
リリスにとって、ギルドという場所は、かつて彼女がいたどの場所よりも複雑で、そして読み解きがいのあるテクストであった。
そこには、多種多様な人間たちの、剥き出しの欲望、焦燥、疲労、そして束の間の安らぎが、渦を巻いていた。
彼女は、その渦の中で、かつて生き延びるために培った、他者の感情を読み解く能力を、無意識のうちに最大限に活用していた。
それは、ほとんど本能に近い領域の技術であった。
依頼から帰還した冒険者の、鎧に付着した泥の匂いと、その眉間に刻まれた皺の深さから、彼の依頼がどれほど過酷だったかを察知する。
酒を呷るドワーフの、ジョッキを握る指先の微かな震えから、彼が次の大きな獲物を前にして武者震いしていることを見抜く。
エルフの剣士が、窓の外の夕暮れを眺めるその瞳の奥に宿る、遠い故郷への郷愁を読み取る。
彼女は、決して言葉を発しない。
ただ、観察し、分析し、そして、先回りして行動する。
ある男のジョッキが半分ほど空になれば、彼の視線がカウンターに向かうよりも早く、新しいエールが満たされたジョッキが、音もなく彼の隣に置かれる。
ある女剣士が、血糊の付いた長剣を無造作に壁に立てかければ、いつの間にか、手入れ用の油と清潔な布が、その足元に用意されている。
長旅で疲れ果てたパーティが、重い足取りでテーブルにつけば、何も注文する前に、人数分の温かい野菜スープが、湯気を立てて運ばれてくる。
その献身は、当初、ギルドの荒くれ者たちからは、奇妙な、あるいは不気味なものとして映った。
彼らは、リリスを「感情のない人形」「ギルダのお気に入りの玩具」と呼び、その存在を無視し、あるいは軽んじていた。
だが、彼女のその機械的でさえある完璧な奉仕は、報酬を求めるものでも、賞賛を期待するものでもなかった。
それは、自らの存在価値を、自らの有用性によって証明しようとする、悲痛なまでの生存本能の表れであった。
彼女は、ただ、ここにいるために、必要とされるために、その魂をすり減らしていたのだ。
変化の兆しは、ある雨の日に訪れた。
ギルドの扉が乱暴に開け放たれ、熊のような体躯を持つ斧使い、バルガスが、仲間二人に両脇を抱えられて転がり込んできた。
彼は、ワイバーンの亜種との戦闘で、左肩から脇腹にかけてを、鋭い爪で深く引き裂かれていた。
血の匂いが、酒と汗の匂いに満ちた酒場に、生々しく立ち込める。
「ちくしょう……! あと一歩だったってのによ!」
バルガスは、悪態をつきながら、テーブルに突っ伏した。
彼の周りでは、他の冒険者たちが、興味本位に、あるいは嘲笑を込めて、その無様な姿を眺めている。
「おいおい、バルガス。でかい口叩いてた割には、返り討ちか?」
「ワイバーンに負けたとは、覚醒級の名が廃るな」
その時だった。
厨房の入り口で、その光景を見ていたリリスが、動いた。
彼女は、バルガスの苦痛に満ちた呻き声と、その額に滲む汗の量、そして、不規則な呼吸のリズムから、彼の傷が、見た目以上に深刻であることを、瞬時に理解した。
それは、かつて「煤の底」で、客に折檻された仲間たちの姿と、二重写しになった。
リリスは、誰に命じられるでもなく、踵を返して、奥の診療室へと駆けだした。
そして、薬草の調合をしていたエヴァの手を引き、事態を簡潔に、しかし的確に伝えた。
「バルガスさん、が。左肩、爪。……呼吸が、浅い。すぐに」
エヴァは、リリスのその切迫した様子に、事の重大さを悟り、すぐに治療道具を手に酒場へと向かった。
治療が始まった。
エヴァが聖なる光で傷口を浄化し、縫合していく間、リリスは、ただ黙って、その傍らに控えていた。
彼女は、バルガスが苦痛に顔を歪めれば、水の入った杯をその唇に運び、熱で火照った額に汗が噴き出せば、冷たい水で濡らした布で、そっとそれを拭った。
その動きには、一切の無駄も、感情の揺らぎもなかった。
それは、ただ、苦しむ者を前にして、為されるべきことを為すという、純粋な機能の遂行であった。
治療が終わり、エヴァが去った後も、リリスは、バルガスの傍らを離れなかった。
バルガスは、麻酔代わりの強い酒で朦朧としながらも、自らの世話を焼く、その小さな銀髪の少女の姿を、ぼんやりと目で追っていた。
*……なんだ、こいつは。*
彼は、以前、この少女を「壊れた人形」と呼び、その肩に無遠慮に触れ、ギルダの逆鱗に触れたことを、思い出していた。
あの時の、恐怖に凍りついた、ガラス玉のような瞳。
それが、今は、ただ静かに、彼の苦痛を見つめている。
そこに、侮蔑も、同情も、好奇心もなかった。
ただ、痛みに寄り添う、無垢な献身だけがあった。
その事実が、バルガスの荒んだ心を、じわりと、しかし確実に、揺さぶっていた。
彼は、これまで、強さこそが全ての世界で生きてきた。
弱者は、強者に嘲笑され、利用されるのが当然の理だと思っていた。
だが、今、目の前にいるこの少女は、その理の外にいた。
「……おい」
バルガスは、掠れた声で、リリスを呼んだ。
リリスは、びくりと肩を震わせたが、逃げ出すことはなかった。
「……悪かったな」
それは、蚊の鳴くような、小さな声だった。
だが、確かに、謝罪の言葉だった。
リリスは、何も答えず、ただ、小さく首を横に振った。
バルガスは、懐から、ごそごそと何かを取り出すと、それをリリスの手に、無理やり押し付けた。
それは、今回の依頼の報酬の一部であろう、燻製にされた、硬い乾燥肉の塊だった。
「……持ってけ。治療代だ」
それは、彼の不器用な、最大限の感謝の表現だった。
リリスは、その温もりの残る肉の塊を、戸惑いながらも、両手で受け取った。
この一連の出来事は、酒場にいた他の冒険者たちにも、静かな衝撃を与えていた。
最強の暴力こそが正義であると信じていた彼らの世界に、リリスという存在が、全く異なる価値観――無償の献身という、理解しがたい、しかし無視できない力――を、突きつけたのだ。
バルガスのその一件を境に、ギルド内の空気は、少しずつ変化していった。
これまでリリスを空気のように扱っていた冒険者たちが、彼女の存在を、明確に認識し始めたのだ。
それは、決して、友好的で洗練された態度ではなかった。
「おい、人形。俺の斧、錆びてやがら。磨いとけ」
「そこのチビ。今度の依頼、荷物持ちが足りねえんだ。てめえも来い。飯くらいは食わせてやる」
「……これ、余ったんだ。やるよ」
彼らの言葉は、相変わらず粗野で、ぶっきらぼうだった。
だが、その言葉の裏には、以前にはなかった、リリスの能力を認め、彼女を仲間の一員として扱おうとする、不器用な意志が込められていた。
リリスは、その変化に、戸惑いを隠せなかった。
彼女は、ただ、捨てられないために、罰せられないために、奉仕していただけだった。
その行為が、他者の心を動かし、新たな関係性を生み出すなど、想像もしたことがなかったからだ。
だが、乱暴に頭に乗せられた、ゴツゴツした手。
カウンターに無造作に置かれた、焼きたてのパン。
依頼の帰りに渡された、一輪の野の花。
それらの不器用な優しさに触れるたびに、彼女の凍てついた心の表面に、小さな、温かいひびが入っていくのを、彼女自身、感じずにはいられなかった。
*私は、ここにいても、いいのかもしれない。*
*道具としてではなく。商品としてではなく。*
*ただの、私として。*
その想いは、まだか細く、頼りない光だったが、彼女の世界を照らすには、十分すぎるほどの輝きを放っていた。
しかし、リリスは知らなかった。
彼女が、そのささやかな光の中で、新たな絆を育んでいる、その瞬間も。
ギルドの向かいの建物の、薄汚れた屋根の上で。
一人の男が、冷たい雨に濡れながら、じっと、ギルドの扉を見つめていることを。
男の目は、獲物を狙う蛇のように、冷たく、執念深く、一点だけを見据えていた。
その視線の先にあるのは、時折、扉の隙間から見える、銀色の髪。
ボルコフの命令は、絶対だった。
「あの女司祭と、銀髪の小娘の動向を、逐一報告しろ。絶対に、見失うんじゃねえぞ」
斥候の男は、口元に、残忍な笑みを浮かべた。




