居場所
馬車は再び走り出し、やがて陽が傾き始めた頃、ようやく隣町の質素な門が見えてきた。
そこはサラスに比べれば遥かに小さな、石と木でできた素朴な集落だった。
依頼主である薬師の老婆は、二人が無事に薬品を届けたことに安堵し、血に汚れたエヴァの服と、硬い表情のリリスの姿を見て、道中の困難を察したようだった。
「まあ……大変な旅だったことでしょう。本当に、よくぞ届けてくださいました」
老婆は、しわがれた手で二人の手を握り、何度も頭を下げた。
彼女は約束された報酬の銀貨をエヴァに手渡すと、さらに小さな革袋を取り出し、リリスの手にそっと握らせた。
「これは、わしからの心ばかりの礼じゃ。勇敢な、お嬢さんに」
革袋の中には、数枚の銅貨が入っていた。
ずしりとした、確かな重み。
リリスは、自らの掌にあるその重みと、エヴァの服に滲む血の赤色を、交互に見つめた。
*守られただけではない。私も、戦った。*
*この報酬は、ただ与えられたものではない。私たちが、共に勝ち取ったものだ。*
それは、トム少年から貰ったクッキーの甘さとは異なる、鉄の匂いと、血の代価と、そして何よりも誇りの味がする、初めての「戦果」であった。
その事実は、彼女の存在の根幹を、静かに、しかし力強く揺さぶっていた。
サラスへの帰路は、徒歩となった。
乗り合い馬車は既になく、二人は夕暮れの街道を、ゆっくりと歩いていた。
西の空は、燃えるような茜色に染まり、長い影が二人の足元に寄り添うように伸びている。
沈黙を破ったのは、エヴァだった。
「……リリス。少し、私の話をしても、よろしいでしょうか」
その声は、常の穏やかさとは少し違う、どこか遠くを見つめるような、内省的な響きを帯びていた。
リリスは、何も言わずに、こくりと頷いた。
「私は……治癒師になりたくて、なったわけではないのです」
エヴァは、ぽつり、ぽつりと、自らの過去を紡ぎ始めた。
彼女の故郷は、帝国北部の、山間にひっそりと佇む小さな村だったという。
彼女がまだ十歳にも満たない頃、その村を、原因不明の熱病が襲った。
それは、高熱と呼吸困難を引き起こし、次々と村人の命を奪っていく、恐ろしい疫病だった。
「教会の神官も、街の医者も、誰も助けには来てくれませんでした。見捨てられたのです。人々は、神に祈り、ただ死を待つだけでした」
エヴァの声は、淡々としていた。
だが、その言葉の端々から、当時の絶望と無力感が、霧のように滲み出ていた。
「私の両親も、弟も……皆、私の目の前で死んでいきました。私は、ただ、熱に浮かされる彼らの手を握り、冷たくなっていくのを見ていることしかできなかった。何の知識も、力も持たない、ただの子供でしたから」
彼女の瞳が、夕陽を反射して、きらりと光った。
それは、涙ではなかった。
拭い去ることのできない、過去の悔恨が凝縮された、ガラスの破片のような光だった。
「村で生き残ったのは、私を含めて、ほんの数人だけでした。廃墟となった村で、私は誓ったのです。二度と、こんな思いはしたくない。救えるはずの命が、無知と無関心の中で失われていくのを、もう二度と、黙って見ていたくはない、と」
それが、彼女が治癒師を志した、原点だった。
彼女のその慈愛に満ちた微笑みの裏には、おびただしい数の死と、無力だった自分自身への、決して癒えることのない罪の意識が、深く刻み込まれていたのだ。
「だから、私は、救える命は、どんな命であろうと、見捨てることはできないのです。たとえそれが、世界から敵視される魔族の血を引く少女であろうとも……私にとっては、救うべき、尊い一つの命であることに、変わりはないのですから」
エヴァは、そこで言葉を切ると、リリスの方を向いて、優しく微笑んだ。
「あなたを助けたのは、偽善かもしれません。私の、過去に対する、自己満足なのかもしれません。それでも……私は、あなたに出会えて、よかったと、心から思っています」
リリスは、エヴァのその告白を、一言も聞き漏らすまいと、全身を耳にして聞いていた。
他者の、痛み。
他者の、願い。
これまで、他者とは常に、自分を搾取し、支配し、あるいは商品として値踏みする存在でしかなかった。
その世界に、初めて、自らの魂の傷を、ありのままに差し出してくれる人間が現れたのだ。
エヴァの優しさは、上から与えられる、施しのような同情ではなかった。
それは、彼女自身の癒えない傷口から流れ出る、血のような祈りそのものであった。
リリスは、何も答えられなかった。
だが、彼女は、そっと、自らの小さな手を伸ばし、エヴァの、血で汚れた服の袖を、固く、固く、握りしめた。
言葉は、なかった。
だが、その行為こそが、彼女の魂が発した、最大限の共感と、そして、新たに生まれた、揺るぎない信頼の証であった。
二人の間に横たわる、埋めがたい過去の隔たり。
その深淵に、今、一本の、決して切れることのない、絆という名の橋が架けられたのだった。
ギルド「鉄槌と坩堝」に帰り着いた頃には、空にはもう一番星が瞬いていた。
酒場の喧騒を抜け、奥の私室へ向かうと、ギルダが腕を組んで、仁王立ちで二人を待っていた。
彼女は、エヴァの肩の傷を一瞥すると、舌打ち一つして、乱暴な手つきで棚から薬瓶と清潔な布を取り出した。
「……馬鹿者が。治癒師が、自分の身も守れんでどうする」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その手つきは驚くほど優しく、的確だった。
彼女は古い包帯を解くと、手早く傷口を消毒し、新しい薬を塗り込んでいく。
その間、エヴァは、どこかばつの悪そうな顔で、されるがままになっていた。
治療を終えると、ギルダは、カウンターの上に置かれていた革袋を、無言でリリスの前に滑らせた。
中には、今回の配達依頼の正規の報酬である、銀貨が数枚入っていた。
「ご苦労だったな。依頼は、お前たちの勝ちだ」
リリスは、その報酬を受け取った。
だが、ギルダの話は、まだ終わりではなかった。
彼女は、もう一枚の、真新しい羊皮紙を、リリスの前に差し出した。
そこには、荘重なギルドの紋章と共に、いくつかの記入欄が設けられていた。
「なんだ、それは……?」
エヴァが、不思議そうに尋ねた。
「見ての通りだ。ギルドへの、登録申請書だよ」
ギルダは、リリスの目を、真っ直ぐに見据えて言った。
「リリス。お前は、もう、うちのギルドで皿洗いだけをしている、ただの労働者じゃねえ。お前は、この数ヶ月、自らの足で立ち、自らの手で、この街での信頼を勝ち取ってきた。そして、今日の依頼で、お前は冒険者が持つべき、困難に立ち向かう気概と、仲間と協力する知恵を、確かに示した」
彼女は、ごつい指で、羊皮紙の「身分」と書かれた欄を、とん、と叩いた。
「俺は、お前を、この鉄槌と坩堝の、正式な見習いギルド員として、迎え入れたいと思っている」
見習い、ギルド員。
その言葉が、リリスの頭の中で、何度も反響した。
奴隷ではない。
商品でもない。
患者でも、庇護されるべき弱者でも、対価交換のためだけに存在する労働者でもない。
一つの組織に属する、一人の、正式な「一員」。
それは、彼女がこの世に生を受けて十八年間、一度として与えられたことのなかった、確かな「所属」であり、「身分」であり、そして、揺るぎない「居場所」の証明であった。
「……もちろん、無理強いはしねえ。だがな、お前がここで生きていくと決めたんなら、いつまでもエヴァの庇護下で、半端な立場でいるわけにもいかねえだろう。自分の居場所は、自分で決めな」
ギルダは、そう言うと、腕を組んで、リリスの返事を待った。
リリスは、差し出された羊皮紙を、震える手で受け取った。
インクの匂いと、羊皮紙のざらついた感触が、現実の重みをもって、彼女の指先に伝わってくる。
*私の、居場所……。*
戸惑いが、あった。
自分のような、罪深く、汚れた存在が、このような確かな場所を与えられてもいいのだろうか、という、拭いきれない罪悪感。
だが、それ以上に、体の奥底から、熱い、これまで感じたことのない歓喜の感情が、泉のように湧き上がってくるのを、彼女は止めることができなかった。
リリスは、顔を上げた。
その瞳は、涙で潤んでいた。
しかし、それはもはや、絶望や悲しみの涙ではなかった。
「……はい」
消え入りそうな、しかし、一点の曇りもない、澄んだ声だった。
「……私を……ここに、いさせて、ください」
その言葉を聞いて、ギルダの厳つい顔が、ほんの少しだけ、和らいだ。
隣では、エヴァが、嬉しそうに、そして、愛おしそうに、涙を浮かべて微笑んでいた。
リリスは、生まれて初めて、自らの意志で、自らの「居場所」を、その手に掴んだ。
それは、長く、暗いトンネルの果てに、ようやく見つけた、小さな、しかし、どこまでも温かい光だった。




