絆
エヴァはリリスの手を取り、ギルドの配達依頼へ共に参加することを提案した。
リリスは返事をせず、ただエヴァの真剣な瞳を見つめ返す。
その視線には、期待と、まだ拭いきれない恐怖が混じり合っていた。
ギルドの外の世界は、彼女にとって依然として脅威に満ちた領域であったからだ。
しかし、エヴァの揺るぎない信頼が、その恐怖の氷壁を少しずつ溶かしていく。
「隣町まで、薬品を届けるだけの簡単な依頼です。護衛の冒険者を雇うほどでもない、小さな仕事。ですが、今のあなたにとっては、きっと大きな一歩になるはずです」
*大きな一歩。*
その言葉は、リリスの胸に重く、しかしどこか心地よい響きをもって落ちた。
凡人級の依頼をこなす日々に、彼女は確かに存在価値の萌芽を見出していた。
だがそれは、常に一人で行う、閉じた世界での贖罪行為に過ぎなかった。
誰かと「共に」何かを成し遂げる。
それは、あの迷子の猫を探した日以来、彼女が経験したことのない領域だった。
*エヴァさんと、一緒に……。*
その考えは、恐怖と同時に、淡い、未知の期待を彼女の心に芽生えさせた。
「……はい」
リリスは、か細く、しかし確かな声で、頷いた。
翌朝、二人はサラスの東門から出発する、簡素な乗り合い馬車に乗り込んだ。
それは、商人や旅人が安価に利用する、屋根もない荷馬車のようなものだった。
御者台の老人の他には、二人の乗客しかいない。
春の柔らかな日差しが、のどかな田園風景を黄金色に染め上げていた。
馬車が石畳の道を外れ、土の街道に入ると、リールの花が咲き乱れる草原がどこまでも広がっていた。
蝶が舞い、小鳥がさえずる。
そのあまりにも平和な光景は、リリスがこれまでの人生で一度も触れたことのない、物語の中の絵画のようだった。
彼女は、馬車の揺れに身を任せながら、無意識のうちにエヴァの服の袖を固く握りしめていた。
その布地から伝わる微かな温もりが、外界への恐怖を和らげる唯一の拠り所だった。
「どうです、リリス。きれいでしょう?」
エヴァが、微笑みながら囁いた。
リリスは、言葉を発することができなかった。
ただ、こくりと頷く。
「バラ園」にある偽りの風景ではなく、リアルに美しい世界は、ガラス玉のように映り込んでいた。
それは、彼女が「煤の底」で夢に見ることさえ許されなかった、あまりにも眩しい光景だった。
だが、その束の間の平和は、突然、引き裂かれた。
馬車が、両側を鬱蒼とした森に挟まれた薄暗い街道に差し掛かった、その時だった。
道の両脇の茂みから、錆びた剣や手斧を構えた、五人の男たちが姿を現した。
その目は、獲物を見つけた飢えた狼のように、ぎらぎらと輝いていた。
「ひゃっほう! カモのお出ましだぜ!」
リーダー格と思しき、顔に醜い傷跡のある大男が、下品な笑い声を上げる。
「止まれ! 馬車を止めろ! 積荷と金目のものを、全部置いていきな!」
老いた御者は顔面蒼白になり、手綱を落とした。
馬はいななき、その場に立ち尽くす。
同乗していた商人風の男は、悲鳴を上げて震え上がった。
盗賊。
その言葉が、リリスの脳裏を稲妻のように駆け巡った。
それは、かつて彼女を商品として弄んだ男たちと同じ、暴力と欲望の匂いを放っていた。
パニックが、馬車の中を支配した。
御者は命乞いを始め、商人は金貨の入った袋を投げ捨てようとする。
絶望的な状況。
誰もが、ただ奪われるだけの運命を覚悟した。
しかし、リリスだけが、違った。
恐怖で心臓が凍りつく。
手足の先から血の気が引いていく。
だが、その極限状態の中で、彼女の魂の奥深くに刻み込まれた、ある本能が鎌首をもたげた。
それは、奴隷として、家畜として、生き延びるためだけに研ぎ澄まされた、「生存の知恵」だった。
*音を殺せ。気配を消せ。景色に溶け込め。価値のないものになれ。*
思考よりも早く、体が動いた。
リリスは、エヴァの手を引くと、荷台に積まれた薬品の入った木箱の山へと身を滑り込ませた。
そして、体の全ての関節を外し、呼吸を極限まで浅くして、箱と箱のわずかな隙間に、まるで液体のように体を押し込んだのだ。
それは、狭い地下牢で、看守の暴力をやり過ごすために、何度も、何度も繰り返した動きだった。
彼女は、自分の体で薬品箱を覆い隠し、自らもまた、ただの荷物の一部となった。
その瞳からは、全ての感情が消え失せ、ただ状況を分析するだけの、冷たい光だけが宿っていた。
エヴァは、リリスのその常軌を逸した動きに、一瞬、息を呑んだ。
だが、彼女は即座にリリスの意図を理解した。
*この子は、荷物を守ろうとしている。そして、自らを犠牲にしてでも、この依頼を成功させようとしている。*
エヴァの胸を、激しい痛みが貫いた。
だが、今は感傷に浸っている時ではない。
リリスが命がけで稼いだ、この数秒の時間を、無駄にはできない。
*私も、戦わなければ。私のやり方で。*
エヴァは、覚悟を決めた。
彼女は、治癒師であり、本来、人を傷つける魔法は使えない。
だが、彼女の持つ聖なる光は、使い方次第で、強力な武器にもなり得る。
彼女は、隠れるリリスとは対照的に、あえて盗賊たちの前に躍り出た。
「おやめなさい! 罪なき人々から奪うなど、神はお許しになりませんよ!」
その声は震えていたが、その瞳には、断固たる意志が宿っていた。
盗賊のリーダーは、エヴァの美しい容貌と、上等な服を見て、下卑た笑みを浮かべた。
「ほう、女司祭様か。こいつは上玉だ。神様とやらに祈る前に、俺たちを楽しませてもらうぜ!」
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
その瞬間、エヴァは詠唱を開始した。
「原初の光よ、聖なる癒しの泉よ」
「我が身を器とし、汝が慈愛の輝きをここに降ろしたまえ」
「悪しきを見通すその眼を、偽りの闇で覆い隠し」
「罪深き者らに、一瞬の悔悟を与えよ――【聖なる光輝】!」
詠唱が完了すると同時、エヴァの全身から、太陽そのものが降臨したかのような、凄まじい光が放たれた。
それは、本来、重傷者の魂を癒すための、慈愛に満ちた光。
だが、悪意に満ちた者にとって、その純粋すぎる輝きは、網膜を焼き切るほどの暴力的な劇物であった。
「ぐわあああっ! 目が、目がぁっ!」
盗賊たちは、突然の閃光に視力を奪われ、顔を押さえて苦しみ悶えた。
その隙を、エヴァは見逃さなかった。
「今です! 行って!」
エヴァは、呆然としている御者に向かって叫んだ。
御者は、はっと我に返ると、狂ったように馬に鞭を入れた。
馬車は、猛然と駆け出す。
一人の盗賊が、闇雲に振り回した斧が、エヴァの肩を浅く切り裂いた。
赤い血が、白い服に滲む。
だが、エヴァは痛みに顔を歪めながらも、その場に踏みとどまり、光を放ち続けた。
暴走する馬車は、やがて盗賊たちの姿が見えなくなるまで走り続け、森を抜けた開けた場所で、ようやく速度を落とした。
エヴァは、肩の傷を押さえながら、荒い息をついていた。
彼女は、荷物の陰から恐る恐る顔を出したリリスを見て、安心したように微笑んだ。
「……リリス。ご無事で、よかった……」
リリスは、エヴァの肩から流れる血を見て、はっとした。
そして、何も言わずに、自らのワンピースの裾を破くと、慣れた手つきで、エヴァの傷口をきつく縛り、止血した。
その手際の良さは、これまで幾度となく、自分自身や、他の誰かの傷を手当てしてきたことを物語っていた。
「……あなたのせいでは、ありません」
エヴァは、リリスが自分を責めているのだと思い、そう言った。
だが、リリスは、静かに首を横に振った。
「……助かりました」
それは、か細い、しかし、紛れもない感謝の言葉だった。
*私の、おかげ……? 私の、あの汚れた知恵が、エヴァさんを、荷物を、守った……?*
リリスの心に、これまで感じたことのない、熱い感情が込み上げてきた。
それは、迷子の猫を見つけた時の達成感とは、また違うものだった。
誰かと、力を合わせる。
誰かのために、自分の力を使う。
そして、誰かと共に、困難を乗り越える。
その経験が、彼女の心に、「絆」という名の、温かく、そして力強い楔を打ち込んだのだ。
彼女は、エヴァの包帯をきつく結びながら、その顔を見上げた。
その瞳には、もう絶望の色はなかった。
そこには、自らの存在価値を、そして、他者と生きることの意味を、確かな手応えをもって掴み取った、一人の人間の、強い光が宿っていた。
二人は、何も言わずに、互いを見つめ合った。
言葉はなくとも、その視線は、どんな雄弁な言葉よりも深く、互いの魂を結びつけていた。
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