きれいなお人形さんにバラを
フィオナの琥珀色の瞳が、アイリスの存在を穿つように見据えていた。
その視線は単なる観察を超え、魂の深淵までをも検分するかのごとき鋭さを帯びている。
彼女はアイリスから立ち上る微弱な魔力の波長だけでなく、その存在に深く絡みついた、もう一つの匂いを嗅ぎ取っていた。
それは魔力で編まれた隷属の紋様、逃れることのできぬ運命の枷、すなわち奴隷契約の腐臭であった。
血の薄い魔族、そして奴隷。
この二つの情報が組み合わさった瞬間、フィオナの脳裏には、この女が辿ってきたであろう悲惨な道筋が、説明を要さずして、一つの冷徹な結論として像を結んだ。
戦争、捕囚、そして商品としての転落。
数多の魔族が辿った、ありふれた悲劇の一幕に過ぎない。
その凍てつくような静寂を破ったのは、低く、しかし妙に耳に馴染む女の声であった。
「まあ、これはこれは。遠路はるばる、このような場末の楽園へようこそおいでくださいました、帝国の御歴々」
声の主は、年配の女であった。
その顔には深い皺が網の目のように刻まれているが、背筋はまっすぐに伸び、その立ち居振る舞いには長年この場所を支配してきた者だけが持つ、揺るぎない威厳が漂っている。
彼女こそが、この「バラ園」の女主人、マダム・ロザリアであった。
彼女の鋭い鷹のような目は、ゼノンたちの武装と、それが示す「融合級」という圧倒的な力を瞬時に見抜き、しかし、その顔には怯えではなく、商機を見出した商人特有の計算高い笑みを浮かべていた。
「わたくしは、この庭の世話をしておりますロザリアと申します。よろしければ、旅のお疲れを癒す、冷たいお茶などいかがでございましょうか。もちろん、代金はいただきませんわ。これは、わたくしからのささやかな歓迎の印でございます」
その申し出は丁寧でありながら、断ることを許さない響きを含んでいた。
ゼノンは眉をひそめ、リアムは面白そうに口の端を上げた。
フィオナは依然として無表情であったが、その視線はロザリアと、その背後で蒼白になっているアイリスとを交互に捉えていた。
案内されたのは、庭園に面した豪奢な応接室だった。
卓上には銀の茶器が並べられ、高価な茶葉の香りが漂っている。
マダム・ロザリアは、自ら三人の前にカップを置きながら、流れるような口調でこの「バラ園」の「サービス」を紹介し始めた。
「当園では、大陸中から集めました、それはそれは美しい花々を取り揃えておりますわ。東方の神秘を宿す黒髪の乙女、北国の雪のように白い肌を持つ貴婦人…お客様のお好みに合わせて、どのような一夜の夢でもお約束いたします」
その言葉は、まるで高級な反物を客に勧めるかのように滑らかであったが、その実、人間の尊厳を商品としてカタログ化する、冷酷な商行為に他ならなかった。
ゼノンの表情が、侮蔑と怒りで険しくなっていく。
彼が信奉する騎士道精神は、このような魂の売買を断じて許容するものではない。
その時であった。
部屋の隅で庭の花を新しい花瓶に活けていた小さな影が、ことりと音を立てて振り返った。
それは、陽光を浴びた赤い髪と、空の青を映したような瞳を持つ、無垢な少女、リリスであった。
彼女は、白銀の鎧を纏ったゼノンの姿にすっかり心を奪われていた。
その瞳は、おとぎ話に出てくる王子様を見つけたかのように、純粋な憧れで輝いている。
*わあ…きれいな、お人形さんみたい!*
リリスは、ためらうことなく一輪の赤いバラを手に取ると、よちよちとゼノンの元へ歩み寄った。
そして、その小さな手で、バラを彼に差し出したのだ。
「…どうぞ」
そのあまりに無邪気な行動に、部屋の誰もが意表を突かれた。
ゼノンは、差し出されたバラと、少女の屈託のない笑顔を前にして、硬直していた。
彼がその小さな手から花を受け取ろうと屈んだ瞬間、フィオナの鋭い目が、少女の首筋に刻まれた微かな紋様を捉えた。
それは、アイリスに感じたものと同質の、しかしより複雑で強力な隷属の契約印であった。
「…その首の印は、何だ?」
フィオナの問いは、刃のように冷たく、部屋の空気を切り裂いた。
リリスは、自分の首に触れられると、くすぐったそうに身をよじり、そして、満面の笑みで答えた。
「これ?これはね、バラの印だよ!ママとお揃いなの。おばあちゃんがね、リリスがいい子にしてたら、もっと綺麗な印にしてくれるって!すごいでしょ!」
彼女はその印を、まるで特別な勲章であるかのように自慢した。
その言葉が持つ、恐るべき意味を、彼女自身は全く理解していない。
子供が…それもこれほど幼い少女が、この地獄のような場所で、しかも奴隷として扱われている。
その事実が、ゼノン、リアム、そしてフィオナの三人に、異なる種類の衝撃となって突き刺さった。
「…どういうことだ、マダム。この子供まで、あんたの商品だというのか?」
ゼノンの声は、抑えられてはいたが、地底から響くマグマのような怒りに満ちていた。
彼の右手が、腰の剣の柄を強く握りしめる。
マダム・ロザリアは、その殺気にも動じることなく、優雅に紅茶を一口すすると、平然と言い放った。
「あらあら、騎士様。お言葉が過ぎますわ。この子は売り物ではございません。…まあ、正確に申しますと、まだ売り物ではない、ということですわね。この娘は、すでにドラコニアの有力貴族、バーンズ子爵様が将来の初摘みとしてご予約済みの、特別な蕾でございますの。ですから、いかに帝国の勇者様とて、手出しはご無用ですわ」
その言葉は、ゼノンの理性という名の最後の堰を、決壊させるのに十分だった。
子供を、それもまだ蕾とも言える少女を、未来の商品として予約する。
それは、彼の正義が、彼の信じる世界の理が、決して許容できない、絶対的な悪であった。
「貴様ァッ!!」
ゼノンが怒声と共に立ち上がろうとした、その肩を、リアムの力が強く押さえつけた。
「落ち着け、ゼノン!ここは敵地だ。そして、相手は魔族だぞ」
リアムの顔からは、いつもの軽薄な笑みは消え失せ、深い哀しみを湛えた瞳がゼノンを見つめていた。
「魔族は敵だ。帝国の、我々人類の敵だ。…そして、敵の子供もまた、敵なんだ。悲しいが、それが戦争の理屈だ。俺たちの手で救うべき相手じゃない」
その言葉は、冷酷な現実を突きつける刃であった。
そうだ、アイリスは魔族だ。
そして、その娘であるリリスもまた、魔族の血を引いている。
帝国の兵士として、彼らが守るべきは帝国の民であり、敵である魔族ではない。
たとえそれが、どれほど無垢で、哀れな子供であったとしても。
ゼノンは、握りしめた拳が震えるのを感じた。
彼の内なる正義と、帝国兵士としての立場が、激しく衝突し、その魂を軋ませていた。
リアムの言葉は正論であった。
しかし、その正論は、目の前の小さな命を救えないという絶望的な無力感を、彼に容赦なく叩きつけるだけだった。
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