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生きる道

エヴァは、深夜の厨房でリリスが見せた狂気的なまでの完璧主義と、その裏にある自己破壊の衝動に、もはや治癒師としての無力さだけではなく、深い恐怖すら感じていた。


彼女は、自室のベッドで毛布にくるまり、人形のように動かなくなったリリスの手を取った。


そして、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、外に出るよう促した。


「リリス、散歩に行きましょう。ずっと部屋にいては、気が滅入るだけです」


リリスは、その申し出に反応を示さなかった。


ただ、ガラス玉のような瞳が、虚空の一点を見つめている。


エヴァは諦めなかった。


彼女は根気強く、窓の外から聞こえる鳥のさえずりや、市場の喧騒、パン屋から漂ってくる甘い香りについて語り続けた。


それは、リリスが失ってしまった、あるいは一度も手にしたことのない「日常」という名の、ささやかな幸福の断片だった。


*このままでは、この子は本当に壊れてしまう。あの清潔すぎる厨房のように、魂が磨耗し、削り取られ、空っぽになってしまう。*


エヴァの脳裏に、ギルダの言葉が蘇る。


てめえのやり方が間違ってるとは言わねえ。


だがな、この小娘に今一番必要なのは、涙や同情じゃねえ。


その言葉が、エヴァの背中を押した。


彼女は、半ば強引にリリスの体を起こさせると、外出用の簡素なワンピースを着せ、その冷たい手を固く握りしめた。


「さあ、行きましょう。大丈夫。私が、あなたの側にいますから」


リリスは、抵抗しなかった。


抵抗する気力も、理由も、彼女にはなかった。


ただ、エヴァの温かい手に引かれるまま、ギルドの重い扉の外へと、一歩、足を踏み出した。


太陽の光が、リリスの白い肌を容赦なく焼いた。


それは、地下牢の湿った闇や、薄暗い娼館の廊下しか知らなかった彼女にとって、あまりにも暴力的な輝きだった。


彼女は眩しさに目を細め、反射的にエヴァの背後に隠れようとした。


サラスの街は、活気に満ちていた。


石畳の道を、荷馬車がガラガラと音を立てて通り過ぎていく。


道端では、露店の商人が威勢のいい声を張り上げ、屈強な冒険者たちが酒場で昼間からエールを酌み交わしている。


子供たちの甲高い笑い声が、どこからともなく聞こえてくる。


鼻腔をくすぐるのは、焼きたてのパンの香ばしい匂い、果物の甘酸っぱい匂い、そして人々の汗と生活の匂いが混じり合った、濃厚な生命の香りだった。


それは、リリスが「煤の底」で嗅いだ、汚水と絶望と腐敗の悪臭とは、あまりにもかけ離れた世界だった。


*ここは、私のいるべき場所ではない。*


リリスの心は、恐怖と混乱で満たされた。


道行く人々の何気ない視線が、全て自分を値踏みし、嘲笑しているかのように感じられる。


彼女はエヴァの服の裾を、溺れる者が藁を掴むように、強く、強く握りしめた。


エヴァは、そんなリリスの恐怖を察しながらも、あえて歩みを止めなかった。


彼女は、市場の果物屋で赤く熟れたリンゴを二つ買い、その一つをリリスの手に握らせた。


「食べてみて。甘くて美味しいですよ」


リリスは、戸惑いながらも、そのリンゴを恐る恐る口にした。


しゃくり、という軽快な音と共に、瑞々しい果汁が口の中に広がる。


それは、彼女がこれまでの人生で味わったことのない、純粋で、甘美な味だった。


二人はやがて、街の中央広場に面した、ギルドの巨大な掲示板の前にたどり着いた。


そこには、羊皮紙に書かれた無数の依頼書が、所狭しと張り出されていた。


ドワーフの使う黒鉄の画鋲、エルフが好む木の画鋲、人間の商人が使う真鍮の画鋲。


その一つ一つが、誰かの抱える問題と、それを解決しようとする誰かの意志を象徴していた。


「薬草の採集」「ゴブリンの巣の掃討」「行方不明の商隊の捜索」……。


依頼の内容は様々で、そのほとんどはリリスにとって縁のない、血生臭い戦闘を連想させるものばかりだった。


だが、その中で一枚だけ、彼女の目を引いた依頼があった。


それは、子供の拙い字で書かれた、小さな依頼書だった。


迷子の猫を探してください。


名前はミーちゃん。


白くて、しっぽが黒いです。


報酬は、お母さんからもらったお小遣いの、5ドルです


その依頼書の横には、「推奨レベル:凡人」と記されていた。


*猫を探す。それが、仕事になるのか?*


リリスにとって、それは理解の範疇を超えた概念だった。


仕事とは、苦痛を伴う奉仕であり、自らの価値を証明するための苦行ではなかったのか。


誰かを「助ける」という行為が、対価を生む。


その事実が、彼女の心に小さなさざ波を立てた。


「……あの……」


リリスは、ほとんど無意識のうちに、声を漏らしていた。


それは、彼女が自らの意志で発した、初めての質問だった。


「レベル、とは……何ですか?」


エヴァは、リリスが掲示板に興味を示したことに、驚きと、そして隠しきれない喜びを感じた。


それは、凍てついた大地から、ようやく小さな芽が顔を出したかのような、奇跡的な瞬間だった。


「レベル、ですか。それは、私たち冒険者や兵士の強さを示す、一つの目安のようなものです」


エヴァは、できるだけ分かりやすい言葉を選びながら、丁寧に説明を始めた。


「まず、魔力を持たない普通の人々が凡人。彼らは戦闘には向きませんが、ミーちゃんを探すような、日常の中の小さな困りごとを解決してくれます」


彼女は、ゴブリン掃討の依頼を指さした。


「次に、身体能力を魔法で強化できる者が覚醒級。彼らは、こうした低級な魔物や盗賊から、村や町を守るのが主な仕事です」


エヴァは、自分の胸にそっと手を当てた。


「そして、私のように火の玉を飛ばしたり、傷を癒したり、簡単な魔法が使える者が魔導級です。都市の防衛や、少し厄介な事件の解決に駆り出されます」


さらに、エヴァはもっと大きな、ドラゴンの討伐依頼を指し示した。


「それ以上の、一つの魔法で戦場の流れを変えてしまうような強力な魔法の使い手が融合級。かつてあなたが出会った、ゼノン様たちのような方々ですね。彼らはもはや一個人で、一つの軍隊に匹敵します。伯爵様や侯爵様といった、大貴族の方々と直接渡り合うこともあります」


エヴァはそこで一度言葉を切り、空を見上げた。


「そして、そのさらに上……天災にも等しい力で、たった一人で国を滅ぼすことすら可能な者たちを、私たちは畏敬を込めて超然級と呼びます。彼らは、もはや人間の枠を超えた、戦略兵器のような存在です」


リリスは、その壮大な力の階梯の話を、ただ黙って聞いていた。


ゼノン。


その名が、彼女の胸の奥で、鈍い痛みを伴って響いた。


彼らは、そんなにも手の届かない、雲の上の存在だったのだ。


しかし、彼女の心をとらえたのは、融合級や超然級といった、圧倒的な強者の話ではなかった。


*凡人……。*


魔力を持たず、戦闘能力もない、普通の人々。


それでも、彼らは誰かの助けになることができる。


迷子の猫を探し、報酬を得て、生活をすることができる。


それは、自分のような、何の力も持たない、価値のない存在でも、生きることを許される世界があるという、可能性の光だった。


リリスは、握りしめていたリンゴの、その確かな重みと甘さを、改めて感じていた。


それは、彼女が初めて自らの意志で触れた、「普通の生活」の味だったのかもしれない。



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