自己破壊
バルガスの一件が落とした波紋は、ギルドの酒場の床に染みついたエールの染みよりも深く、長く残った。
ギルダ・ブロンズハンマーが下した鉄槌の制裁は、リリスが彼女の絶対的な庇護下にある「所有物」であることを、ギルドの全ての構成員に宣告した。
それ以来、リリスに嘲笑を投げかける者も、不躾な視線を送る者もいなくなった。
彼女は、ギルドという武骨な砦の中で、奇妙に神聖化された不可侵の存在となったのだ。
だが、ギルダの憂慮は晴れなかった。
リリスの魂は、いまだ壊れたままだ。
外部からの脅威は取り除けても、彼女の内側から湧き上がる自己破壊の衝動は、エヴァの涙をもってしても、ギルダの怒りをもってしても、止めることはできない。
*このままでは、あの小娘は皿洗いの水の中で溺れ死ぬか、己の影に怯えて擦り切れてしまうか、どちらかだ。*
ギルダは、炉の炎を見つめながら、一つの決断を下した。
その日の夕食後、いつものように洗い桶に向かおうとするリリスを、ギルダは呼び止めた。
「小娘。明日から、てめえの仕事を変える」
リリスの肩が、見えない鞭で打たれたかのようにびくりと震えた。
*仕事を変える。それは、今の仕事に価値がなかったということ。私は、やはり失敗したのだ。*
恐怖で顔を青ざめさせるリリスに、ギルダは構わず続けた。
「厨房の仕事は、午前中だけだ。午後からは、こっちへ来い。鍛冶場の見習いをさせてやる」
鍛冶場。
その言葉が、リリスの鼓膜を不吉に揺さぶった。
燃え盛る炎。
鳴り響く槌音。
飛び散る火花。
それは、彼女の記憶の底に眠る、母を奪った業火の光景と分かちがたく結びついていた。
「……いや……です……」
か細い、蚊の鳴くような声で、リリスは拒絶の言葉を漏らした。
それは、彼女がこのギルドに来て初めて口にした、明確な意思表示だった。
しかし、ギルダはその小さな反抗を、一蹴した。
「これは決定だ。てめえに拒否権はねえ。労働者は、雇用主の命令に従う義務がある。違うか?」
ギルダの瞳には、有無を言わせぬ圧があった。
リリスは、その視線に射竦められ、再び沈黙の殻に閉じこもるしかなかった。
翌日の午後、リリスは死刑執行を待つ罪人のような足取りで、鍛冶場に足を踏み入れた。
ごう、と音を立てて燃え盛る炉の熱気が、彼女の肌を炙る。
カン、カン、とリズミカルに響き渡る槌の音が、心臓を直接叩くように不快に反響する。
彼女はエヴァの服の裾を固く握りしめ、その背後に隠れるようにして立ち尽くした。
*怖い。熱い。痛い。*
過去の記憶が、幻覚となって彼女を苛む。
だが、ギルダはそんな彼女の恐怖など意にも介さなかった。
「ぼさっと突っ立ってるんじゃねえ! まずはそこにある槌とやすりを、全部磨け! 錆一つ、油汚れ一つ残すなよ!」
ギルダは、作業台に山と積まれた、使い古された道具の山を指さした。
それは、皿洗いと同じ、単純で、終わりの見えない作業だった。
リリスは、おそるおそる槌を手に取った。
ずしりと重い。
鉄の冷たさと、使い込まれた木の柄の滑らかな感触が、彼女の指先に伝わってくる。
彼女は言われた通り、布と油を使って、一つ一つ丁寧に道具を磨き始めた。
最初は、恐怖で手が震えた。
炉に近づくたびに、体が硬直し、呼吸が浅くなる。
だが、ギルダの容赦ない叱責が飛んでくるたびに、彼女は反射的に手を動かした。
命令に従わなければ。
価値を示さなければ。
その強迫観念が、恐怖を上回っていく。
何日か経つうちに、リリスは少しずつ、その環境に順応していった。
槌の重さ。
やすりの粗さ。
鋼の匂い。
それらはもはや恐怖の対象ではなく、彼女が向き合うべき「仕事」の一部となっていた。
彼女は、ギルダや他のドワーフたちが、赤熱した鉄塊を打ち、形を変え、やがて鋭い剣や頑丈な鎧へと変えていく様を、ただ黙って見つめていた。
それは、彼女にとって未知の世界だった。
壊れ、錆びつき、価値を失ったかに見えた鉄屑が、炎と槌によって、新たな命と価値を与えられていく。
*壊れたものは、捨てられるだけでは、ないのか?*
*失われた価値は、取り戻すことが、できるのか?*
*新しいものを、生み出すことが、できるのか?*
彼女の心に、小さな、本当に小さな疑問の種が蒔かれた。
それは、これまでの彼女の世界観を根底から揺るがす、危険で、そして微かな希望を伴う種だった。
彼女は、磨き上げた槌を、そっと自分の手のひらで包んでみた。
それはただの道具ではない。
何かを「創り出す」ための、力を秘めた存在なのだ。
だが、その小さな変化は、彼女の魂に深く刻まれた自己否定の呪いを解くには、まだあまりにも非力だった。
ギルダの期待。
エヴァの憂い。
それらは、彼女にとって「応えなければならない」プレッシャーとしてのしかかった。
厨房の仕事。
鍛冶場の見習い。
与えられた仕事だけでは足りない。
もっと価値を示さなければ。
もっと完璧でなければ、私はここにいることを許されない。
彼女の思考は、再び歪んだ献身へと回帰していく。
この優しさに、この場所に、私は見合わない。
ならば、せめて、この身を削ってでも、奉仕しなくては。
その夜、ギルドの全員が寝静まった深夜。
リリスは、そっと自分の寝台を抜け出した。
音もなく廊下を歩き、彼女が向かった先は、鍛冶場ではなく、厨房だった。
暗く、静まり返った厨房。
昼間の喧騒が嘘のように、そこには静寂と、食べ物の残り香だけが満ちていた。
リリスは、その中央に一人、静かに佇んだ。
そして、彼女の儀式が始まった。
彼女はまず、全ての鍋を棚から下ろし、洗剤と硬いブラシで、焦げ付き一つ残さず磨き上げた。
次に、床にひざまずき、石鹸水を含ませた布で、石畳の床を一枚一枚、丹念に拭き上げていく。
壁の油汚れ、調理台の隅の食べかす、排水溝のぬめり。
彼女は、まるで自らの罪を洗い流すかのように、狂気的なまでの集中力で、厨房の全てを浄化していった。
それは、もはや労働ではなかった。
自らの存在を許されるために、神に捧げる贖罪の儀式。
汚れた自分自身を、この清潔な空間と一体化させることで、束の間の存在理由を得ようとする、悲痛な祈りであった。
汗が額から流れ落ち、腕は痺れ、膝は擦り切れて痛んだ。
だが、彼女は止めない。
完璧な清潔さだけが、彼女の汚れた魂を、一時的に救ってくれるのだ。
東の空が白み始める頃、彼女の儀式は終わった。
翌朝、一番に厨房へ入ったドワーフの料理長は、我が目を疑った。
厨房は、ありえないほどに輝いていた。
床は鏡のように光を反射し、壁は白く輝き、銅の鍋は新品のように黄金色の光を放っている。
まるで、高名な司祭が聖別の儀式でも執り行ったかのように、そこは神殿のごとき清浄さに満ちていた。
「な……なんだ、こりゃあ……」
彼の驚きの声に、ギルダと、リリスの様子を見に来たエヴァが駆けつけた。
二人もまた、その異様な光景に言葉を失った。
ギルダはすぐに理解した。
この常軌を逸した仕事は、誰がやったのかを。
昨日の厨房には、まだ三日分の汚れが溜まっていたはずだ。
それを一晩で、たった一人で、この完璧な状態にまで磨き上げる。
それは、常人三人がかりでも不可能な仕事量だった。
「……あの馬鹿娘が」
ギルダの呟きには、怒りよりも深い、どうしようもない憂慮が滲んでいた。
エヴァは、磨き上げられた床に、小さな血の染みが点々と残っているのを見つけた。
おそらく、リリスが膝を擦りむいて流した血だろう。
その小さな痕跡が、昨夜ここで行われた、少女の悲痛な儀式の苛烈さを物語っていた。
エヴァの胸が、締め付けられるように痛んだ。
*違う。私が望んでいたのは、こんなことじゃない。*
*彼女に、自分を罰してほしかったわけじゃない。ただ、生きていてほしかっただけなのに。*
ギルダが与えた「労働」という新たな価値。
エヴァが与えた「無償の愛」という救い。
その二つが、皮肉にもリリスの中で歪に混ざり合い、彼女をさらなる自己破壊の深淵へと追い詰めていた。
二人は、顔を見合わせた。
その視線には、同じ問いが浮かんでいた。
我々は、この壊れた魂を、本当に救うことができるのだろうか、と。




