優しさは、猛毒
ずしん、という地響きにも似た重い足音が、厨房の床を震わせた。
リリスが狂ったように皿を洗い続けるその背後で、ギルダ・ブロンズハンマーが仁王立ちになっていた。
その太い腕は胸の前で組まれ、赤銅色の髭に覆われた顔には、炉の炎の色にも似た、静かな怒りが宿っていた。
「そこまでだ、小娘」
その声は、槌が鋼を打つ音のように硬質で、有無を言わせぬ響きを持っていた。
リリスの肩がびくりと跳ねる。
しかし、彼女は手を止めない。
止めてはならない。
止まってしまえば、自分の存在価値が消え失せてしまう。
その頑なな背中に、ギルダは深く、重いため息をついた。
次の瞬間、彼女はリリスの隣に踏み込むと、その巨大な手で、血の滲む包帯ごとリリスの左腕を鷲掴みにした。
「ッ……!」
骨がきしむほどの握力。
リリスの小さな体は、まるで木の葉のように洗い桶から引き剥がされた。
手から滑り落ちた皿が、けたたましい音を立てて桶の中に沈む。
*罰が、来る。*
リリスの全身が恐怖で硬直する。
彼女は目を固く閉じ、次に来るであろう暴力的な衝撃に備えた。
殴られるのか、蹴られるのか。
あるいは、このまま壁に叩きつけられるのか。
だが、予想された痛みは訪れなかった。
代わりに、彼女は乱暴に椅子に座らされ、ギルダがその前に屈み込むのが見えた。
ギルダはリリスの血濡れの左手を掴むと、荒々しい手つきで巻かれていた包帯を解き、傷口を露わにした。
「ちっ、思ったより深いな」
ギルダは舌打ちすると、傍らに置いていた医療箱から消毒薬の瓶と清潔な布を取り出した。
そして、躊躇なく消毒薬を傷口に振りかけた。
「ひ……っ!」
焼けるような激痛が走り、リリスは悲鳴を上げて手を引こうとした。
しかし、ギルダの万力のような力の前では、その抵抗は赤子の戯れに等しかった。
「動くな。暴れると余計に染みるぞ」
ギルダは低い声でそれだけ言うと、手際よく傷口を清め、新しい包帯をきつく、しかし的確に巻き付けていく。
その手つきは、どこまでも無骨で、荒々しい。
だが、不思議なほどに正確で、一切の無駄がなかった。
それは、武器を鍛え、修復する鍛冶師としての彼女の技術が、そのまま治療という行為に転用されたかのようだった。
やがて手当てが終わると、ギルダはリリスの顔を覗き込んだ。
その真摯な瞳が、ガラス玉のようなリリスの瞳をまっすぐに射抜く。
「いいか、小娘。よく聞け。二度とは言わねえ」
ギルダの声は、静かだが、厨房の全ての音を圧するほどの重みを持っていた。
「お前はもう奴隷じゃねえ。ここの労働者だ。奴隷は壊れるまで使われる道具だが、労働者は違う。労働者にはな、権利と義務がある」
*けんり?ぎむ?*
リリスの知らない言葉。
それは、彼女がこれまで生きてきた世界には存在しなかった概念だった。
「てめえの義務は、俺が命じた仕事を、きちんとこなすことだ。だがな、お前には権利もある。その一つが、怪我をしたら休む権利だ。いいか、これは権利であると同時に、労働者としての義務でもあるんだ」
ギルダは、包帯の巻かれたリリスの指を、そのごつい指先でトン、と突いた。
「怪我をしたまま働いて、仕事の効率が落ちる。傷が悪化して、働けなくなる。それは、てめえの義務を放棄することと同じだ。雇用主である俺に対する、裏切り行為だ。分かったか?」
リリスには、分からなかった。
休むことが、義務?怪我を治すことが、裏切りではない?
彼女の頭は混乱の極みにあった。
ギルダの言葉は、彼女がこれまで叩き込まれてきた全ての法則を根底から覆す、理解不能な呪文のように聞こえた。
それはあまりに理不尽で、あまりに矛盾していて、きっと何か裏があるに違いない。
これは、もっと巧妙で、もっと残酷な罰を与えるための、新しい規則なのだ。
リリスは恐怖に震えながら、ただ小さく、何度も頷いた。
反論すれば、殺される。
今はただ、この嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
その時だった。
厨房の扉が勢いよく開かれ、エヴァが息を切らしながら駆け込んできた。
ギルダからの簡潔な魔導通信を受け、彼女は血相を変えて飛んできたのだ。
「リリス!」
エヴァの目に、椅子に座らされたリリスと、その手に巻かれた真新しい包帯の白さが飛び込んできた。
その瞬間、エヴァの顔から血の気が引いた。
「怪我を……したのね……?」
その声は、悲痛に震えていた。
エヴァの胸に、治癒師としての、そして一人の人間としての、深い無力感が突き刺さった。
*ああ、まただ。また、この子を傷つけてしまった。私が側にいながら。私が、守ると誓ったのに。*
物理的な傷なら、癒せる。
しかし、彼女を自傷行為にまで駆り立てる、魂の奥深くに根差した病巣には、自分の力はあまりにも及ばない。
「……ごめんなさい、リリス。私が、至らなかったせいで……」
リリスの心の混乱は、頂点に達していた。
ギルダの怒り。
エヴァの涙。
理解できない。
なぜ、この人たちは、自分のために怒り、自分のために泣くのだろうか。
皿を割ったのは自分だ。
怪我をしたのは自分だ。
それは、自分の価値が低いことの証明であり、自分が罰せられるべき罪のはずだ。
なのに、なぜ。
エヴァは、込み上げる感情を抑えきれずに、リリスの小さな体を強く抱きしめた。
「お願いだから、もう自分を傷つけないで……。お願い……」
その声は、嗚咽に途切れ、リリスの肩を濡らした。
「あなたが痛いと、私も痛いの。あなたが血を流すと、私の心も血を流すのよ。だから、お願い……」
エヴァの温もり。
その悲痛な懇願。
それは、リリスが生まれてから一度も向けられたことのない、あまりにも純粋で、無償の優しさだった。
そして、それ故に、それは彼女にとって最も理解し難く、最も恐ろしいものだった。
*この人の涙は、私のせいだ。私が、この人を悲しませている。私が、この人を苦しめている。*
*私は、存在するだけで罪なのに。この人の優しさを受けるたびに、新たな罪を重ねていく。*
*この負債は、どうすれば返せるのだろう?*
愛されていなかった彼女には、優しさは、猛毒だった。
それはリリスの心に甘く染み込みながら、彼女の罪悪感を何倍にも増幅させ、逃れようのない泥沼へと引きずり込んでいく。
エヴァの腕の中で、リリスは身動き一つできなかった。
彼女は、ただ、自分が犯した新たな罪の重さに、静かに打ちのめされていた。




