価値の証明
「鉄槌と坩堝」の厨房は、リリスにとって新たな戦場であった。
そこには、かつて彼女が知る娼館の厨房のような、華やかな香りも、客の舌を喜ばせるための繊細な調理も存在しない。
あるのはただ、冒険者たちが貪り食った後の、夥しい数の汚れた皿、脂の浮いたスープ鍋、そして骨と食べかすの山であった。
湯気の立つ巨大な洗い桶からは、石鹸と油が混じり合った、むせ返るような匂いが立ち上っている。
リリスの仕事は、この無限に続くかのような皿の山を、ただひたすらに洗い続けること。
ギルダはそれを「仕事」と言った。
エヴァはそれを「労働」と呼んだ。
しかし、リリスにとって、それは自らの生存を賭けた、終わりのない試練であった。
彼女は奴隷ではない。
「労働者」だ。
その言葉の意味を、彼女はまだ理解できない。
だが、働かなければ、ここにいる価値はない。
価値がなければ、捨てられる。
それは、彼女の魂に刻み込まれた、絶対の法則であった。
*早く。もっと早く。完璧に。*
彼女の思考は、この三つの言葉に支配されていた。
一枚の皿を手に取り、布でこする。
汚れを落とし、湯ですすぐ。
そして、水切り棚に置く。
その一連の動作を、彼女は機械のように繰り返した。
休憩はない。
無駄口もない。
ただ、目の前の皿を一枚でも多く片付けること。
それが、彼女が自らに課したノルマであり、存在証明であった。
だが、焦りは、必ず失敗を呼ぶ。
ぬるりとした脂が残る皿が、彼女の手から滑り落ちそうになる。
慌てて掴み直すが、その衝撃で隣の皿にぶつかり、甲高い音を立てる。
そのたびに、リリスの心臓は氷の手に掴まれたように縮み上がった。
*失敗した。価値が下がった。罰が来る。*
彼女は背後を振り返る。
だが、そこには誰もいない。
ギルダも、厨房の他のドワーフたちも、彼女の小さなミスなど気にも留めていない。
彼らは彼女を罰しようとはしなかった。
その事実が、リリスをさらに混乱させた。
罰がない。
それは、より大きな罰への前触れではないのか? あるいは、自分はすでに、罰する価値もないほど無意味な存在だと見なされているのか?
恐怖が、彼女の動きをさらに硬く、ぎこちないものにしていく。
その日は、特に多くの冒険者がギルドを訪れていた。
雪深い山脈でのゴブリン討伐から帰還した一団が、祝杯をあげていたのだ。
厨房には、通常の三倍近い量の皿が、まるで絶望の塔のように積み上げられていた。
リリスは、息つく暇もなく手を動かし続けた。
湯気で視界が曇り、腕は鉛のように重い。
だが、彼女は止まらない。
止められない。
この山を片付けなければ、今日の自分の価値はゼロになる。
その時だった。
疲労で感覚の鈍った指先から、重なった陶器の皿が数枚、バランスを崩した。
リリスは咄嗟にそれを支えようと手を伸ばしたが、間に合わない。
ガシャン、という、耳を裂くような破壊音。
数枚の皿が床に落ちて、白い破片となって飛び散った。
静まり返る厨房。
全ての視線が、自分に突き刺さる。
リリスは、時間が止まったかのような錯覚に陥った。
床に散らばる白い破片。
それは、ただの割れた皿ではなかった。
それは、彼女が必死に積み上げようとしていた、脆く、儚い「価値」の残骸であった。
そして、鋭い痛み。
見れば、左手の人差し指の付け根が、ざっくりと切れていた。
割れた皿の鋭利な破片が、彼女の皮膚を切り裂いたのだ。
赤い血が、ぷくりと玉になり、やがて糸を引くように流れ落ちた。
床の白い破片の上に、点々と、鮮やかな深紅の染みを作る。
*血。怪我。失敗。*
リリスの思考が、恐怖で凍り付く。
商品に傷をつけた。
使い物にならなくなった。
次は、処分だ。
だが、予想された怒声も、暴力も、訪れなかった。
厨房の長である恰幅の良いドワーフの男が、忌々しげに舌打ちをしたが、すぐに自分の仕事に戻っていった。
まるで、何もなかったかのように。
リリスは、その無関心に、さらなる恐怖を覚えた。
*もう、私は見捨てられたのだ。*
彼女の脳裏に、母アイリスの最後の言葉が蘇る。
「生きなさい」。
生きるためには、価値を証明し続けなければならない。
失った価値は、取り戻さなければならない。
リリスは、床の破片には目もくれず、洗い桶に向き直った。
左手から流れ落ちる血が、桶の湯をじわりと赤く染めていく。
指先の痛みは、心臓を締め付ける恐怖に比べれば、取るに足らないものだった。
彼女は、右手だけで皿を掴み、布でこすり始めた。
左手は、血を流しながらも、皿を支えるために添える。
滑る。
力が入らない。
それでも、彼女は止めなかった。
血で汚れた皿を、もう一度、念入りに洗う。
一枚、また一枚と、作業を続ける。
遅れを取り戻さなければ。
割ってしまった皿の分まで、働かなければ。
そうでなければ、自分はここにいることを許されない。
彼女の瞳から、光が消えていた。
そこにあるのは、ただ、自らを罰し、労働という名の贖罪に身を投じる、壊れた人形の姿だけだった。
その一部始終を、ギルダは厨房の入り口の影から、静かに見ていた。
彼女は、リリスが皿を割った時、すぐに駆けつけようとした。
だが、その後のリリスの行動を見て、足を止めた。
血を流しながら、狂ったように皿を洗い続ける少女。
その姿は、痛々しいという言葉では表現しきれない、ある種の神聖ささえ帯びていた。
それは、生きることに執着する魂の、悲痛な叫びそのものだった。
ギルダの胸に、熱い何かが込み上げてくる。
それは、怒りではない。
ましてや、失望でもない。
それは、あまりにも深い、どうしようもない哀れみだった。
*……可哀想に。*
ギルダは、誰に言うでもなく、そう呟いた。
*一体、どれほどの地獄をくぐり抜けてくれば、人間はここまで壊れてしまうんだ。痛みよりも罰を恐れ、血よりも価値を重んじるように、誰がこの子を躾けたんだ。*
彼女は、ドラコニアのクソ貴族たちの顔を思い浮かべ、奥歯をギリリと噛みしめた。
だが、今は怒りをぶつける時ではない。
ギルダは、そっとその場を離れた。
そして、医療棚から清潔な包帯と消毒薬を取り出すと、再び厨房へと向かった。
無理やり仕事を取り上げれば、この子はさらに自分を追い詰めるだろう。
だから、せめて。
この不器用で、武骨なドワーフにできる、精一杯のやり方で。
ギルダは、静かに、しかし決然とした足取りで、血に濡れた少女の元へと歩み寄っていった。




