表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/125

この手だけは、離したくない

地下倉庫の冷たい闇から、二人は朝日が差し込む路地裏へと滑り出た。


潮の香りが濃密に空気を満たし、遠くで市場の喧騒が生命の鼓動のように響いている。


エヴァはリリスの手を引き、まるで影のように人の気配がない廃屋へと身を隠した。


朽ちかけた扉を静かに閉めると、彼女は壁際に隠されていた大きな革袋を引き寄せた。


「これを着るのよ。私たちはこれから、薬草を売りに来た旅の商人とその従者になる」


エヴァは袋から、簡素だが清潔な亜麻色のワンピースと、深い森の色をしたフード付きのケープを取り出した。


それは、ごく普通の、名もなき平民が纏う衣服だった。


*服……?*


リリスは差し出されたそれを、理解できない物体を見るかのように見つめた。


彼女が知る衣服は二種類しかない。


体にぴったりと張り付き、肉体の曲線を強調することで商品価値を示す「娼婦のドレス」か、あるいは所有者の紋章が焼印され、人間としての尊厳を剥奪する記号である「奴隷の囚人服」だ。


自分で服を着るという行為も、その概念さえも、彼女の経験には存在しなかった。


それは常に、マダムか、客か、看守によって「着せられる」ものだったからだ。


リリスは微動だにせず、ただ立ち尽くす。


どうすればいいのか分からない。


この布を、体にどう纏えばいいのか。


エヴァの意図を測りかね、彼女の顔色を窺う。


これは新たな役割を与えるための儀式なのだろうか。


それとも、理解力を試すための拷問の一種なのだろうか。


エヴァはリリスの戸惑いを即座に察し、小さく息を吐いた。


その瞳に浮かんだのは、怒りでも焦りでもなく、ただ深い、海のような哀れみだった。


「ごめんなさい、怖がらせたわね。大丈夫。私が手伝うわ」


エヴァはリリスの背後に回り、まるで壊れ物を扱うかのように、その肩にそっと触れた。


そして、昨日着せられたばかりの、少し大きすぎる寝間着の紐をゆっくりと解いていく。


肌に直接触れる、自分以外の誰かの指先の温度。


それは暴力的な接触とは全く異質の、穏やかで、ためらいがちな温もりだった。


リリスの体が硬直する。


母アイリスが死んで以来、誰かにこのように触れられたことはなかった。


エヴァは手早く寝間着を脱がせると、亜麻のワンピースをリリスの頭から優しく被せた。


布地が肌を擦る感触は、媚びを売るための絹や、罪を刻むための粗布とは違う、素朴で飾り気のないものだった。


「腕を上げて。そう、上手よ」


囁くような声に従い、リリスは人形のように腕を動かす。


エヴァは最後にケープを羽織らせ、フードを目深に被せた。


「髪も、整えましょうね」


エヴァは懐から木製の櫛を取り出し、もつれたリリスの銀髪を、根元から毛先へと丁寧に梳かしていく。


櫛が頭皮を優しく刺激するたびに、リリスの背筋を奇妙な痺れが駆け抜けた。


それは痛みに備える条件反射と、未知の心地よさが混ざり合った、矛盾した感覚だった。


*なぜ……?*


リリスの心に、答えの出ない問いが渦巻く。


*なぜ、この人は、ここまでしてくれるのだろうか。私は汚れていて、無価値で、存在するだけで罪なのに。こんな母親のような、姉のような優しさは、私が受けていいものではない。これは罰だ。いつか必ず、この温もりの代償として、耐え難い苦痛が与えられるに違いない。*


恐怖と罪悪感が、甘美な安らぎの底から毒のように滲み出してくる。


リリスは唇を固く結び、その矛盾した感情の嵐に耐えた。


「さあ、行きましょう。市門が閉鎖される前に、この雑踏に紛れて通り抜けるわ」


再び手を引かれ、リリスは廃屋の外へと一歩踏み出した。


その瞬間、世界が爆発した。


声、音、匂い、色彩。


あらゆる情報が津波のように押し寄せ、リリスの五感を叩きのめす。


威勢のいい魚売りの男の怒鳴り声。


焼きたてのパンの甘く香ばしい匂い。


色とりどりの果物を並べた露店。


甲高い笑い声を上げて走り回る子供たち。


荷馬車を引く馬のいななきと、蹄が石畳を打つ硬い音。


これが「普通の朝」。


これが「日常」。


だが、リリスにとって、それは理解不能な混沌であり、悪夢の変奏曲だった。


男の叫び声は、客の欲望に満ちた催促に聞こえる。


子供たちの無邪気な笑顔は、これから始まる嗜虐的な遊戯の序曲に思える。


行き交う人々の視線は、品定めするような値踏みの視線に重なり、肌を焼く。


彼女は自分の周りに見えない壁があるのを感じた。


壁の向こう側で、人々は「生きている」。


笑い、話し、怒り、泣いている。


しかし、自分はその輪の外にいる。


自分は生きていない。


ただ、呼吸をしているだけの肉の塊だ。


エヴァに手を引かれ、人波をかき分けるように進む。


リリスはフードを目深に被り、ガラス玉のような瞳で、この狂った万華鏡のような世界をただ見つめていた。


「しっかり捕まっていて、リリス。離れないで」


エヴァの声が、喧騒の中でかろうじて聞こえる。


彼女はリリスを庇うようにして、人々の肩や荷物を避けながら、巧みに進路を切り開いていく。


その背中は小さく、頼りなげに見えるのに、リリスを守る防波堤のように、少しも揺るがなかった。


リリスは、エヴァのケープの裾を、溺れる者が藁を掴むように強く握りしめた。


この人の手だけが、この狂った世界で唯一、信じられるものだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ