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生きよう

腐敗した苔と汚泥に覆われた石畳の上で、エヴァの革靴が不快な摩擦音を立てて滑った。


彼女の重心が後方へ大きく傾き、白い服の裾が黒ずんだ汚水に向かって翻る。


「あっ――」


短い呼気が漏れた瞬間、彼女の視界は天井のシミへと回転しようとしていた。


その刹那、影が動いた。


リリスの体は思考よりも速く、脊髄に焼き付けられた命令回路によって駆動した。


右足を踏み込み、泥濘を恐れることなく滑り込む。


左腕を伸ばし、エヴァの腰を正確な角度で抱え上げ、同時に自らの体重を壁側にかけて落下エネルギーを殺す。


それは、かつて宴席で酔った客が千鳥足になった際、酒を一滴もこぼさずに支えるために叩き込まれた、高級奴隷としての技術体系そのものであった。


水音が一つ、響いただけだった。


リリスは膝まで汚水に浸かりながらも、エヴァの体を完璧に支えきっていた。


白い服には、泥の跳ね一つ付いていない。


「……っ、申し訳、ございません……!」


次の瞬間、リリスは弾かれたようにエヴァの体を壁際に立たせ、自らはその場に膝をついて頭を垂れた。


心臓が早鐘を打つ。


やってしまった。


主人の体に許可なく触れた。


あまつさえ、主人の不始末を目撃し、それを自身の行動で確定させてしまった。


これは「不敬」であり「恥をかかせた」罪だ。


マダム・ロザリアならば、この場で鞭を振るっただろう。


バーンズ子爵ならば、革靴で顔を踏みつけたに違いない。


*殴られる。蹴られる。息ができなくなるまで。*


リリスは条件反射的に首をすくめ、歯を食いしばって衝撃に備えた。


冷たい汚水が膝に染み込んでくるが、そんな不快感など、これから降ってくるはずの暴力に比べれば無に等しい。


しかし、頭上に落ちてきたのは、荒い息遣いと、温かい手のひらだった。


「……ありがとう」


リリスの肩がびくりと震えた。


耳を疑った。


今、何と言った?


ゆっくりと顔を上げると、そこには怒りに歪んだ顔ではなく、安堵と驚き、そして純粋な感謝を湛えたエヴァの瞳があった。


「ありがとう、リリス。あなたがいてくれて助かったわ。……怪我はない?」


エヴァは屈み込み、泥水に浸かったリリスの手を取り、自身のハンカチで丁寧に拭き始めた。


「すごいわね。あんなに素早く動けるなんて。私一人だったら、今頃全身泥まみれで、動けなくなっていたかもしれない」


リリスは口をパクパクと開閉させた。


言葉が出てこない。


*ありがとう?*


*助かった?*


その単語は、彼女の辞書には存在しない文脈で使われていた。


彼女の行動は、罰を回避するための防衛本能であり、主人の所有物としての機能を果たしたに過ぎない。


なのに、なぜ。


この人は、まるで私が「人間」として意志を持って助けたかのように、私に礼を言うのか。


「私……は……」


喉が引きつる。


「役に……立ちましたか……?」


「ええ。とても」


エヴァは力強く頷き、リリスの手を握り直した。


「あなたは私の恩人よ。さあ、行こう。この手が汚れてしまったのは私のせいね。後で、温かいお湯で洗いましょう」


恩人。


その響きが、リリスの空っぽの胸の奥に、小さな灯火を点した。


痛みを与えるためではなく、快楽を搾り取るためでもなく、ただ「存在してくれてよかった」と認められること。


それは、麻薬のような甘美さと、劇薬のような衝撃を伴って、彼女の凍りついた感情の表層を揺さぶった。


リリスは、エヴァに引かれるまま立ち上がり、自分の汚れた手を見つめた。


汚い手。


けれど、この手は今、初めて「誰かを救う」ために使われたのだ。


二人は再び歩き出し、水路の複雑な分岐点へと差し掛かった。


前方の闇の中に、微かなランプの光が揺れているのが見える。


「こちらだ! エヴァさんか!?」


押し殺した男の声が響いた。


ギルドの警備担当職員が二人、ランタンを布で覆いながら手招きしている。


そしてその背後には、ボロ布を纏い、煤と垢に塗れた数人の子供たちが、怯えた様子で固まっていた。


「煤の底」の生き残りたち。


彼らの瞳は濁り、恐怖に支配されている。


昨夜の自分と同じ目をしている。


だが、リリスは無意識のうちに背筋を伸ばしていた。


今の自分には、エヴァに繋がれた手がある。


その温もりが、あちら側の「絶望」と、こちら側の「希望」を分かつ唯一の命綱であることを、彼女は本能で理解していたからだ。



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