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希望の種

爆音と共に、樹齢三百年の樫で作られたギルドの正門が内側へと弾け飛んだ。


舞い上がる木片と土煙の中、オーギュストは身じろぎもせず、土足でロビーを踏み荒らす鋼鉄の巨躯を正面から見据えた。


「……随分と派手なノックだな、大隊長殿」


オーギュストは、埃を被ったカウンターに肘をつき、手遊びしていた短剣を鞘に納めた。


その声は平静を装っているが、額には脂汗が滲んでいる。


目の前に立つ男、「鋼鉄の断頭台」ギャレットから放たれる重圧は、物理的な質量を持って肌を刺した。


融合級。


一個の生物としての格が違う。


呼吸をするだけで、周囲の大気が震え、弱者は立っていることすら許されない覇気が渦巻いている。


ギャレットは、フルフェイスの兜越しに、感情のない視線をギルドマスターへと向けた。


「国家保安法第4条に基づき、重要参考人の身柄を拘束する。退け、ドブネズミ」


「保安法? おかしいな。俺の記憶にある条文では、ギルドへの立ち入りには72時間前の通告と、司法省の発行する令状が必要だったはずだが」


オーギュストは口の端を歪め、引き出しから分厚い羊皮紙の束を取り出した。


「ここにあるのは、共和国とギルド連盟が結んだ不可侵条約の原本だ。貴公のその一歩は、我が国における冒険者経済の完全停止を招くぞ。共和国の物流の四割を担う我々を敵に回して、軍は補給線を維持できるのか?」


それは、ただのハッタリだ。


軍が本気になれば、ギルドなど一晩で消し炭になる。


だが、オーギュストは賭けていた。


軍人という種族は、命令系統と政治的リスクに弱い。


ギャレットが足を止めた。


兜の奥で、舌打ちのような音が響く。


「……貴様の舌は、随分と滑らかだな。だが、その舌で剣戟を弾けるか?」


ギャレットの手が、背中の大剣の柄にかかる。


ジャリ、と金属が擦れる音が、死刑宣告のようにロビーに響き渡った。


オーギュストの背筋に氷柱が突き刺さる。


交渉決裂。


言葉のバリケードなど、圧倒的な暴力の前には紙切れ同然だ。


それでも、オーギュストは退かなかった。


一秒。


あと一秒。


あの子たちが、暗闇に消えるまでの時間を。


「弾けはせんよ。だが、この老骨が砕ける音は、議会の重鎮たちの耳には随分と不快に響くだろうな」


オーギュストは両手を広げ、無防備な腹を晒して立ちはだかった。


同時刻。


ギルドの厨房の奥、巨大な冷蔵倉庫の床下に隠された鉄蓋が開かれた。


ムッとするような湿気と、腐敗臭。


そして、鼻を突く汚水の匂い。


「……っ」


リリスは、その穴の底から漂う空気に触れた瞬間、喉の奥で悲鳴を殺し、硬直した。


知っている。


この匂いを、知っている。


排泄物と、腐った残飯と、死体が混ざり合った独特の悪臭。


それは、彼女が地獄を見た――「煤の底」の香りそのものだった。


「リリス、怖がらないで。ここはただの通り道よ」


エヴァの声が、頭上から降ってくる。


しかし、リリスの耳には、その声が遠く歪んで聞こえた。


通り道? 嘘だ。


これは、帰り道だ。


美しい夢は終わったのだ。


綺麗な部屋も、温かいスープも、優しい言葉も、すべては一時の気まぐれ。


不用品となった自分は、再びあのゴミ溜めへと廃棄されるのだ。


「……いや……」


リリスは首を横に振った。


足がすくみ、動かない。


視界が暗転する。


暗闇の奥から、男たちの卑猥な笑い声や、母が殴られる音が幻聴となって響いてくる。


行きたくない。


戻りたくない。


でも、逆らえばもっと酷いことになる。


「リリス!」


強い力で、手首を引かれた。


ハッとして顔を上げると、薄暗いランプの光に照らされたエヴァの顔があった。


彼女は、汚れることも厭わず、膝をついてリリスの目線に合わせていた。


「見なさい。私の目を」


エヴァの瞳は、真剣そのものだった。


そこには、リリスを捨てる者の冷たさは微塵もなく、むしろ、何か大切な宝物を守ろうとする必死な熱が宿っていた。


「あなたを捨てたりしない。あの場所には戻さない。約束したでしょう? 私があなたを守るって」


エヴァは、リリスの氷のように冷たい手を、両手で包み込み、さするように温めた。


「ここは暗くて、臭いけれど……この先には、海があるの。広い、広い海が。そこへ行けば、もう誰もあなたを鎖で繋いだりしない」


海。


リリスはその言葉を、お伽話の中の単語としてしか知らなかった。


見たこともない、青くてしょっぱい水溜まり。


本当に? 本当に、別の場所へ行くの?


疑念は晴れない。


だが、エヴァの手の温もりだけは、リアルだった。


その熱が、凍り付いた恐怖をわずかに溶かし、動かなかった足に命令を送る。


リリスは、こくりと小さく頷いた。


「……はい、ご主人様」


「エヴァよ。エヴァと呼んで」


エヴァは悲しげに微笑み、リリスの手を引いて、暗い梯子を降りていった。


地下水路は、都市の排泄物を飲み込む巨大な消化器官のようだった。


石造りの壁は苔と汚泥でヌルヌルと光り、足元を流れる黒い水面には、何かの骨や生活ゴミが浮いている。


パチャ、パチャ。


二人の足音が、反響して不気味に響く。


リリスは、エヴァの背中に隠れるようにして歩いた。


彼女はエヴァの手を、命綱のように強く握りしめていた。


爪が食い込むほどに。


もしこの手を離せば、自分は即座に闇に溶け込み、汚泥の一部となって流されてしまうような気がしたのだ。


エヴァは、複雑に入り組んだ水路を、迷いなく進んでいく。


彼女の脳内には、事前にオーギュストから叩き込まれた脱出ルートがあった。


軍の検問を避けるには、主要な排水口ではなく、廃棄された旧時代の密輸用通路を使うしかない。


「もう少しよ。もう少しで、港の地下倉庫に出るわ」


エヴァは小声で励まし、時折、背後を警戒するように振り返った。


追っ手の気配はない。


今のところは、オーギュストの「交渉」が功を奏しているようだ。


だが、あの「鋼鉄の断頭台」が、いつまでも言葉遊びに付き合ってくれるとは限らない。


リリスは、ただひたすらに、目の前の白い服の背中を見つめていた。


汚水が跳ねて、エヴァの純白の裾を汚していく。


*汚れる。私なんかのために、綺麗なご主人様が汚れていく。*


その事実は、リリスの胸を締め付けた。


申し訳なさと、そして、言葉にできない奇妙な高揚感。


自分ごときのために、ここまでしてくれる人がいる。


それは、彼女の無価値な人生において、初めてのエラーだった。


そのエラーが、彼女の空っぽの心に、小さな、しかし消えない「希望」という名の種を植え付けていた。



【作者よりお願い】


もし、この物語の中で

心に残ったものが少しでもあったなら。


苦しかった、

切なかった、

それでも続きを見届けたい――

そう感じていただけたなら。


広告の下にある【☆☆☆☆☆】をタップし、

【★★★★★】をつけていただけると幸いです。


皆さまの静かな応援が、

この物語を最後まで書き続ける力になります。


どうか、よろしくお願いいたします。

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