拒絶と渇望
闇の底で、炎が爆ぜた。
赤黒い舌が舐め上げるのは、腐った木材と、人間の脂。
鼻腔を焼き尽くすのは、肉が焦げる甘ったるい悪臭と、絶望の匂い。
「逃げて」と叫ぶ母の声が、崩落する瓦礫の轟音にかき消される。
熱い。
痛い。
息ができない。
私の腕の中で、母の身体が炭化していく。
その目だけが、最期まで私を見つめ、そして、砕け散った。
「あ、あ、あああっ……!」
リリスは、喉を引き裂くような悲鳴と共に、現実へと弾き出された。
上体を跳ね起こした彼女の視界は、未だ悪夢の残滓である赤い幻影に覆われている。
心臓が肋骨を砕かんばかりに早鐘を打ち、ヒュー、ヒューと、痙攣する喉が酸素を求めて喘ぐ。
ここはどこだ。
暗い。
静かだ。
炎はない。
けれど、あの熱が、まだ肌にまとわりついている。
リリスは自分の身体を掻きむしった。
冷たい汗が、びっしょりと寝間着を濡らしている。
死んだはずだ。
私は、あの炎の中で、母と共に灰になったはずだ。
なのに、なぜ、まだ息をしている。
なぜ、まだこの胸は、こんなにも苦しく脈打っているのか。
恐怖が、冷たい泥水のように、足元から這い上がってくる。
孤独。
絶対的な孤独。
この静寂は、死後の虚無なのか、それとも、次なる拷問の準備時間なのか。
バン、と扉が開く音が、静寂を破った。
廊下の光が、鋭い刃のように暗闇を切り裂き、リリスは悲鳴を上げてシーツを被ろうとした。
「リリス!」
誰かが、名前を呼んだ。
足音が近づいてくる。
処刑人か。
それとも、魔物か。
逃げ場はない。
ベッドのヘッドボードに背中を押し付け、リリスはガタガタと震えながら、その「敵」の接近を待った。
しかし、彼女を包み込んだのは、痛みでも、冷たい刃でもなかった。
柔らかく、温かい、質量。
石鹸と、薬草の香り。
「大丈夫。大丈夫よ。私はここにいるわ」
エヴァが、ベッドに乗り出し、錯乱するリリスの身体を、強く、抱きしめていた。
その腕は、逃げようとするリリスを拘束するためではなく、バラバラになりそうな彼女の魂を、繋ぎ止めるための、枠組みのようであった。
リリスの身体が、石のように硬直した。
触れられた。
捕まった。
脊髄反射的な恐怖が、全身の筋肉を収縮させる。
次は殴られる。
髪を掴まれる。
犯される。
彼女は息を止め、来るべき衝撃に備えた。
しかし、衝撃は来なかった。
代わりに、背中を撫でる、一定のリズムの手のひら。
耳元で繰り返される、呪文のような、優しい囁き。
「息を吸って。そう、ゆっくり。怖くないわ。夢を見ていたのね」
エヴァの体温が、冷え切ったリリスの肌を通して、内側へと浸透してくる。
それは、猛毒だった。
リリスの記憶にある「接触」は、すべて奪取と暴力のためのものであった。
与えられるだけの温もりなど、母が死んで以来、この世界には存在しないはずのものだ。
拒絶しなければ。
この毒に侵されれば、弱くなる。
期待してしまう。
そして、裏切られた時に、本当の死が訪れる。
「い……や……」
リリスの口から、掠れた拒絶の言葉が漏れた。
しかし、その手は、無意識のうちに、エヴァの服を掴み、すがりついていた。
温かい。
悔しいけれど、温かい。
凍り付いていた涙腺が、熱によって溶かされる。
リリスは、エヴァの胸に顔を埋めたまま、声を殺して泣いた。
嗚咽が、痩せた身体を激しく揺らした。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
涙が枯れ、呼吸が整うにつれ、リリスの理性が――娼館で叩き込まれた、奴隷としての歪んだ理性が、再起動を始めた。
現状を確認する。
深夜。
密室。
ベッドの上。
そして、自分を抱きしめているのは、この場所の管理者であり、自分に食事と寝床を与えた「主人」であるエヴァ。
リリスの背筋に、冷ややかな戦慄が走った。
*私は、何をしていたの?*
主人に抱きつき、泣き喚き、あまつさえ、その服を涙で汚してしまった。
これは、万死に値する無礼だ。
折檻を受けても文句は言えない。
さらに、深夜に主人が部屋を訪れた意味。
それは、一つしかない。
「対価」の回収だ。
食事を与えた。
傷を治した。
その分の借りを、体で支払えという催促に決まっている。
泣いている場合ではなかったのだ。
リリスは、慌ててエヴァの腕から身を離した。
涙で濡れた顔を袖で乱暴に拭い、瞬時に、あの「媚びるような卑屈な笑み」を貼り付ける。
「申し訳……ございません、ご主人様。お見苦しいところを……」
震える指が、自分の寝間着のボタンにかかる。
「夜の……お世話でございますね? 気づかずに、申し訳ありません。すぐに、準備を……」
彼女は、自ら寝間着の肩をはだけさせ、白く滑らかな肌を露わにした。
その瞳には、恐怖と、諦めと、そして「これで許してもらえる」という卑しい安堵の色が浮かんでいた。
「どこでも……お好きなように。道具も、お使いになりますか? それとも、手や口で……?」
パシッ。
乾いた音が響いた。
エヴァの手が、リリスの手首を掴み、その動きを止めたのだ。
痛みはない。
しかし、その力は強かった。
リリスはびくりと肩を震わせ、反射的に目を閉じて、頬への平手打ちを待った。
「やめなさい」
降ってきたのは、打撃音ではなく、低く、静かな、しかし怒気を孕んだ声だった。
リリスがおそるおそる目を開けると、そこには、悲痛なほどに顔を歪めたエヴァがいた。
彼女の瞳は、揺れていた。
怒りではない。
それは、深い、深い悲しみだった。
エヴァは、はだけかけたリリスの寝間着を、丁寧に直し、ボタンを留めた。
まるで、壊れ物を扱うように。
「リリス。よく聞きなさい」
エヴァは、リリスの両肩に手を置き、その虚ろな青い瞳を、正面から見据えた。
逃がさない、という強い意志がそこにあった。
「あなたは、何も支払わなくていいの」
エヴァの言葉は、リリスの理解を拒絶した。
「……え?」
「食事も、ベッドも、治療も。すべて、あなたが必要としているから、ここにあるの。あなたが、何かをしたから与えられたわけじゃない。これから何かをしなければならないわけでもない」
エヴァの声が、少し震えた。
彼女は、この少女の魂に刻まれた傷跡の深さに、改めて戦慄していた。
「奉仕なんて、しなくていい。誰かの機嫌を取る必要もない。自分の体を、切り売りする必要なんて、もう二度とないのよ」
リリスは、呆然と口を開けた。
理解できない。
タダより高いものはない。
働かざる者食うべからず。
価値のない者は廃棄される。
それが、彼女の世界の鉄則だ。
それを否定されることは、彼女が生き延びるために積み上げてきた全ての論理を、根底から破壊されることと同義だった。
「で、でも……それじゃあ、私は……どうして……?」
リリスの声が震える。
「対価を払わなければ、私は……ここにいては、いけない……捨てられ……」
「捨てない!」
エヴァが、強く言い切った。
その声の強さに、リリスは息を呑んだ。
「私が、あなたをここにいさせる。あなたが、ただ、あなたとして生きていくことを、私が許すわ。誰が何と言おうと」
エヴァは再び、リリスを抱き寄せた。
今度は、リリスも抵抗しなかった。
抵抗する力も、思考する力も、エヴァの圧倒的な「肯定」の前に、霧散してしまったからだ。
「今日はもう、お休み。私が、朝までここにいるから。悪夢が来たら、また追い払ってあげる。だから……もう、自分を傷つけるようなことは、考えないで」
エヴァの腕の中で、リリスは瞬きを繰り返した。
分からない。
まだ、信じられない。
けれど、この温かさが、嘘や演技ではないことだけは、本能が感じ取っていた。
リリスは、エヴァの服を、小さな手で、ぎゅっと握りしめた。
それが、今の彼女にできる、精一杯の「縋る」という行為だった。
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