些細な幸せ
胃が痙攣し、酸っぱい胃液が喉元までせり上がる。
鼻腔をくすぐるスープの湯気が、思考を白く塗りつぶしていく。
リリスは乾いた唇を舐め、震える指先でテーブルの上のスプーンへと手を伸ばした。
本能という名の獣は、理性の檻を容易く喰い破る。
処刑前の最後の晩餐かもしれないという恐怖。
毒が仕込まれているかもしれないという疑念。
それら全ての警告を、圧倒的な飢餓感が凌駕していく。
三日間、泥水すら啜っていなかった肉体は、生きるための燃料を渇望し、悲鳴を上げていた。
リリスの視界は明滅し、指先は自身の意思とは無関係に、温かいスープの器へと引き寄せられていく。
銀のスプーンが、琥珀色の液体を掬い上げる。
その手が震え、雫がテーブルクロスに小さな染みを作った。
リリスは目を固く閉じ、覚悟を決めて、それを口へと運んだ。
喉を焼く劇薬の苦痛か、意識を奪う眠り薬の甘さか。
どちらが来るにせよ、これで終わる。
しかし、舌の上に広がったのは、そのどちらでもなかった。
煮込まれた野菜の素朴な甘みと、肉の旨味。
そして、冷え切った内臓に染み渡る、優しい熱。
「……ぁ……」
リリスは目を見開いた。
痛みがない。
苦しみもない。
ただ、美味しいという、遠い記憶の底に沈んでいた感覚だけが、鮮烈に蘇る。
なぜ。
なぜ、痛くないのか。
なぜ、苦しくないのか。
その事実は、彼女にとって安堵ではなく、更なる混乱の種となった。
痛みこそが彼女の世界の理であり、優しさとは暴力の前触れであったはずだ。
この温かさは、一体何を意味するのか。
この後には、どれほどの地獄が用意されているというのか。
思考とは裏腹に、一度堰を切った食欲は止まることを知らなかった。
リリスはスプーンを動かす手を止められなかった。
スープを飲み干し、柔らかい白パンを千切り、果実水で流し込む。
咀嚼するたびに、嚥下するたびに、生きているという実感が、血肉となって全身を巡る。
それは、死を望んでいた彼女の意志に対する、肉体からの痛烈な裏切り行為のようでもあった。
皿が空になる頃には、彼女の腹部は満たされていたが、心には鉛のように重い疑念が沈殿していた。
殺さない。
傷つけない。
ただ、与えるだけ。
それは、未知の恐怖だった。
目的が見えない悪意ほど、恐ろしいものはない。
彼女は空になった皿を見つめ、自分が、見えない檻の中で飼育されている珍獣になったかのような錯覚に囚われた。
突如として、強烈な睡魔が彼女を襲った。
満ち足りた胃袋に血液が集中し、極限まで張り詰めていた緊張の糸が、限界を迎えて切れたのだ。
視界が揺らぎ、世界が急速に遠ざかっていく。
*薬……? いいえ、これは……*
ただの生理的な反応だと理解するだけの理性は、もはや残っていなかった。
リリスは、抵抗しようと椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
そのまま、彼女の身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
柔らかなカーペットが、彼女の顔を受け止める。
眠ってはいけない。
眠れば、無防備になる。
何をされるか分からない。
必死の警告も虚しく、意識は深い闇の底へと引きずり込まれていった。
それは、三年ぶりに訪れた、恐怖も痛みもない、ただの安らかな眠りであった。
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