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「……申し訳、ございません。ご主人様」

エヴァの沈黙が、リリスの鼓膜を不吉に震わせた。


土下座をしたままの彼女の脳髄を、氷柱のような恐怖が貫いた。


*沈黙は、不満の証。不満は、折檻の前触れ。そして、役に立たぬ道具は、廃棄される。*


その論理は、呼吸をするよりも自然に、彼女の思考を支配した。


廃棄とは、死ではない。


「煤の底」よりもさらに深く、暗い場所へ、壊れた肉の塊として捨てられることを意味する。


瞬間、リリスの背筋に電流が走り、恐怖で硬直していた回路が、生存のための別回路へと切り替わった。


それは、娼館という名の煉獄で、骨の髄まで叩き込まれた、防衛本能という名の演技指導。


リリスは、床に擦り付けていた額を、ゆっくりと上げた。


先ほどまでの、怯えきった小動物のような表情は、霧散していた。


代わりにその唇に浮かんでいたのは、蜜のように甘く、そして硝子細工のように脆く、完璧に計算された「微笑み」であった。


青い瞳は、依然として光を失ったままでありながら、媚態を帯びて細められ、濡れたような艶を放つ。


それは、見る者の庇護欲を擽り、同時に加虐心を煽るよう設計された、娼婦の仮面そのものであった。


「……申し訳、ございません。ご主人様」


鈴を転がすような、甘ったるい声が、部屋の空気を異質なものへと変えた。


リリスは膝行してエヴァの足元へと滲り寄ると、その清潔な法衣の裾を、汚れた指で触れることを憚るように、震える手でごく僅かに摘んだ。


「私……少し、混乱していたようでございます。……はい、分かっております。ここは、新しいお仕事の場所なのですね? 私のような汚れた娘を、拾ってくださったのですね?」


リリスは、上目遣いにエヴァを見上げた。


その仕草は、折檻を恐れる奴隷が、主人の機嫌を取るための必死の愛想笑いであり、痛々しいほどに健気であった。


彼女は自らの胸元に手を当て、安物のドレスではなく上質な寝間着越しに、自らの価値を売り込むように言葉を紡ぐ。


「何でも、致します。掃除でも、洗濯でも、下の世話でも……夜の、お相手でも。お気に召すままに、使い潰してくださいませ。叩かれても、焼かれても、決して声は上げません。ですから……どうか、どうか、私を……捨てないでくださいませ……」


エヴァは、足元で媚びを売る少女を見下ろし、呼吸を忘れた。


怒りではない。


嫌悪でもない。


ただ、胸が張り裂けるような、鋭利な痛みが、彼女の理性を切り刻んだ。


目の前の少女は、本来ならば、親に甘え、無邪気に笑い、将来の夢を語るべき年頃だ。


それが、どうだ。


この子は、生き延びるために、自らの尊厳を、魂を、笑顔という仮面の下に押し殺し、自ら進んで奴隷となることを懇願している。


誰が、この子をここまで壊したのか。


首筋に刻まれた黒い薔薇の紋様が、エヴァの視界で呪いのように明滅した。


*許せない。*


エヴァの中で、治癒師としての慈愛が、燃え盛るような義憤へと変わった。


もし、この所業を行った者が目の前にいれば、彼女は迷わず、癒しの光ではなく、断罪の雷をその脳天に落としていただろう。


しかし、今の彼女に必要なのは、怒りではない。


エヴァは、震える手を隠すように、強く拳を握りしめた。


これ以上、自分がここにいれば、この子は「主人に対する奉仕」を強迫的に続けようとするだろう。


今の彼女に必要なのは、他者という脅威からの解放だ。


エヴァは、努めて静かな動作で、ワゴンに乗せられた食事のトレイを、ベッドサイドのテーブルに置いた。


湯気を立てる温かな野菜スープと、焼きたての白パン。


そして、新鮮な果実水。


「……お仕事は、ありませんよ」


エヴァは、感情を押し殺した、極めて平坦な声で告げた。


優しすぎれば、それは彼女にとって「不気味な罠」となり、厳しすぎれば「恐怖」となる。


ただ、事実のみを伝える声。


「食事を置いておきます。私は、出て行きます。誰も、ここには来ません。……ゆっくり、休みなさい」


エヴァは、リリスに背を向けた。


背後から、「ご主人様……?」という、不安げな声が聞こえたが、彼女は振り返らなかった。


振り返れば、その哀れな姿に、涙を見せてしまうかもしれなかったからだ。


彼女は静かに部屋を出て、音を立てずに扉を閉めた。


カチリ、と錠が下りるような小さな音がして、部屋は再び静寂に包まれた。


リリスは、エヴァが消えた扉を、呆然と見つめ続けていた。


作り笑いは、陶器が割れるように崩れ落ち、再び、能面のような無表情へと戻る。


残されたのは、自分一人。


そして、豪奢な部屋と、場違いなほどに上等な食事。


リリスは、よろめくように立ち上がり、部屋の中央にある姿見の前に立った。


鏡に映る自分の姿。


そこには、傷一つなかった。


三年間、男たちの暴力によって刻まれた無数の痣も、煙草の火を押し付けられた火傷の痕も、栄養失調で荒れ果てた肌も、全てが消え失せていた。


白く、滑らかで、まるで生まれたばかりの赤子のような肌。


リリスは、自分の頬に触れ、腕をさすった。


感触がある。


温かい。


*これは、私の体?*


現実感がない。


まるで、精巧に作られた、他人の皮を被せられているような、強烈な違和感と嫌悪感が込み上げた。


そして、視線はテーブルの上の食事へと吸い寄せられた。


湯気が、甘く香ばしい匂いを運んでくる。


胃袋が、三日ぶりの食事を求めて、下品な音を立てて収縮した。


しかし、リリスの手は、動かなかった。


彼女の壊れた論理回路が、一つの、恐るべき結論を導き出したからだ。


*綺麗に、洗われた。傷も、治された。そして、豪勢な食事が、与えられた。*


*……ああ、そうか。*


これは、処刑の準備だ。


家畜を屠殺する前に、餌を与え、肉質を良くするために休息させるように。


あるいは、見世物として処刑台に上げる前に、観衆に見栄えが良いように、化粧を施されたのだ。


そうでなければ、説明がつかない。


自分のような、価値のない、汚れた奴隷に、見返りもなく、このような待遇が与えられるはずがない。


この世に、タダより高いものはない。


かつてのマダム・ロザリアの口癖が、亡霊のように脳裏に蘇る。


*このスープには、毒が入っているのかもしれない。眠り薬かもしれない。あるいは、これを食べた後に、もっと恐ろしい、死以上の苦痛が待っているのかもしれない。*


リリスは、テーブルの前で立ち尽くした。


スープの湯気が、まるで死神の吐息のように揺らめいて見える。


食べたい。


喉が焼けるほどに、飢えている。


しかし、恐怖が、喉を締め上げ、胃を凍り付かせていた。


彼女は、膝を抱えるようにして、部屋の隅、窓からも扉からも最も遠い場所へと後退りし、うずくまった。


美しい花瓶の花も、柔らかなベッドも、温かいスープも、全てが彼女を陥れるための、悪意ある舞台装置にしか見えなかった。


ただ、終わりの時が来るのを、震えながら待つことしか、彼女にはできなかった。



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