望まれた死へ
時は、流れた。
三年の歳月。
千と九十五の夜。
それは、人間にとっては、一つの季節が巡り、新たな希望が芽吹くには、十分な時間であったかもしれない。
しかし、この「煤の底」と呼ばれる、光の届かぬ最底辺において、時間とは、ただ、苦痛の深度を増すためだけに存在する、無慈悲な尺度に過ぎなかった。
リリスにとって、一日とは、二十四時間ではなく、名も知らぬ獣たちの、終わりなき欲望の回数によって、刻まれるものであった。
奴隷契約は、死という、最後の安らぎさえも、彼女たちから奪い去っていた。
どれほどの屈辱を受け、どれほどの絶望に身体を蝕まれようとも、その心臓は、所有者の許可なく、その鼓動を止めることを許されない。
幾度となく、リリスは、このまま意識の闇に溶けてしまえればと願った。
自らの血の匂いの中で、汚れた藁の上に横たわりながら、ただ、終わりを渇望する日々。
しかし、朝は、必ずやって来た。
いや、朝という概念すらないこの場所で、新たな男たちの、がなり立てる声が、彼女を、再び、現実という名の地獄へと、引きずり戻すのであった。
アイリスは、見る影もなく、痩せ衰えていた。
その顔に刻まれた深い皺と、虚ろな瞳は、かつてバラ園で一番の売れっ子であった頃の面影を、何一つ、留めてはいなかった。
それでも、彼女は、その身を削り、魂をすり減らしながら、リリスを守ろうと足掻き続けていた。
自らが、より多くの客を引き受けることで、娘が、少しでも、その毒牙から逃れられるように。
その母の、痛々しいまでの献身が、リリスの、唯一、この地獄に、その意識を繋ぎ止めている、細く、脆い、蜘蛛の糸であった。
*お母様…。私がいるから…。私が、いるから、お母様はこの地獄から、抜け出せない…。私が、いなくなれば…。*
この思いは、もはや、彼女の思考の、全てであった。
自分が消えれば、母は、この苦しみから、解放されるのではないか。
そんな、あり得べからざる幻想だけが、彼女を、正気の淵で、かろうじて、支えていた。
この地獄は、永遠に続く。
そう、誰もが信じていた、ある夜までは。
その夜、空が、裂けた。
ドラコニア共和国が誇る、首都を覆う強固な魔法結界。
その庇護の外側にある、この「煤の底」の、汚れた夜空を、一つの、凶兆の如き光の筋が、切り裂いたのだ。
それは、流星。
しかし、詩人たちが歌うような、儚く、美しいものでは、断じてなかった。
それは、空という、巨大な黒布を引き裂いて、内側から、燃え盛る混沌が、溢れ出してきたかのような、禍々しい輝きであった。
轟音と、衝撃。
流星は、「煤の底」からほど近い、荒れ果てた廃墟地区へと、落下した。
その瞬間、凄まじい熱波と衝撃波が、この不浄の街を、薙ぎ払った。
老朽化した木造の娼館は、乾いた薪のように、一瞬で炎に包まれる。
阿鼻叫喚。
男たちの怒声、女たちの悲鳴、燃え崩れる建物の軋む音。
それら全てが、混沌の坩堝の中で、一つに溶け合っていく。
地獄が、その様相を、変えた。
ただ、淀んだ地獄から、燃え盛る、業火の地獄へと。
その混乱の只中で、アイリスは、娘の名を、絶叫した。
「リリス!リリス、どこにいるの!」
彼女は、燃え盛る梁が、頭上から降り注ぐのも構わず、炎と煙の中を、狂ったように、リリスの姿を探し求めた。
そして、大部屋の片隅で、ただ、ぼんやりと、天井を飲み込もうとする炎を、見上げている娘の姿を、見つけ出した。
「リリス!」
アイリスは、リリスの身体に、覆いかぶさった。
その瞬間、背後の天井が、轟音と共に、崩落した。
燃え盛る、巨大な梁が、アイリスの背中を、直撃した。
「ぐっ…ぁ…!」
アイリスの口から、くぐもった、悲鳴が漏れた。
彼女の背中は、もはや、人の形を留めてはいなかった。
それでも、その両腕は、リリスの身体を、決して離すことなく、固く、固く、抱きしめていた。
「リリス…無事…?」
その声は、血の泡が混じり、か細く、途切れ途切れだった。
リリスの青い瞳が、ゆっくりと、焦点を結ぶ。
目の前には、自分のために、燃える梁の下敷きになった、母の姿があった。
「お母…様…?」
「よかった…」
アイリスは、安堵したかのように、微笑んだ。
その口の端から、赤い、生命の雫が、止めどなく、溢れ出す。
「リリス…よく、お聞き…」
彼女は、最後の力を、振り絞った。
「もう…いいの…。これで、契約は…終わる…。貴女を縛るものは…もう、何もない…」
その瞳は、不思議なほど、穏やかであった。
「逃げて…ここから、遠くへ…。魔族の領地まで…。そこなら…貴女を、受け入れてくれる者が、いるはず…」
その言葉は、もはや、音になっていなかった。
ただ、唇の動きと、その瞳に宿る、切なる願いだけが、彼女の遺言を、伝えていた。
「さあ…行きなさい…。貴女の道は…今から、始まるの…。自由よ…リリス…。やっと…光が…見える…」
そう言うと、アイリスの瞳から、光が、すぅっと、消えていった。
リリスを抱きしめていた腕から、力が、抜ける。
母の、死。
それは、あまりにも、静かで、そして、あまりにも、唐突な、幕切れであった。
リリスは、動かなかった。
その腕の中で、急速に、冷たくなっていく、母の亡骸を、ただ、見つめていた。
涙は、出なかった。
悲しみさえも、感じなかった。
ただ、彼女を、この世に繋ぎ止めていた、最後の糸が、ぷつりと、音を立てて、切れた。
それだけだった。
自由。
お母様は、そう言った。
けれど、お母様がいなければ、その自由に、一体、何の意味があるというのか。
お母様を苦しめる原因であった、私が、生き永らえて、何になるというのか。
リリスは、ゆっくりと、立ち上がった。
周囲では、まだ、炎が燃え盛り、人々が、逃げ惑っている。
しかし、その音は、もはや、彼女の耳には、届かなかった。
彼女は、歩き始めた。
その足は、自然と、あの流星が、落下した場所へと、向かっていた。
死のう。
お母様の後を、追おう。
あの光が、全てを、終わらせてくれる。
彼女の足取りには、何の迷いもなかった。
それは、苦行の旅を終えた巡礼者が、聖地へと向かう、最後の歩みにも似ていた。
やがて、彼女は、その場所に、辿り着いた。
そこには、巨大なクレーターが、口を開けていた。
その中央に、それは、あった。
流星。
それは、黒曜石のようでもあり、しかし、その内部からは、虹色の、不定形の光が、絶えず、蠢くように、漏れ出していた。
周囲の空間が、陽炎のように、歪んでいる。
それは、この世界の、物理法則を、拒絶しているかのような、異質な存在であった。
リリスは、その、冒涜的で、しかし、どこか神々しくもある、謎の物体に、吸い寄せられるように、近づいていった。
そして、まるで、久方ぶりに、愛しい者に、触れるかのように、その白い指先を、ゆっくりと、伸ばした。
指先が、その歪んだ光に、触れた、瞬間。
リリスの脳裏に、イメージが、洪水のように、流れ込んできた。
無数の、星々。
渦巻く、銀河。
見たこともない、幾何学的な、建築物。
そして、理解不能な、しかし、どこか懐かしい、囁き声。
それは、暖かかった。
生まれて初めて、感じるような、魂の、奥底まで、染み渡るような、絶対的な、暖かさ。
それは、かつて、母の腕の中で感じた、温もりとは、全く、異質のものであった。
それは、存在という、孤独な牢獄から、魂を、解き放ってくれるような、宇宙的な、慈愛に満ちた、温もりだった。
*ああ…やっと…帰れる…。*
彼女の意識は、その心地よい、暖かさの中に、溶けていく。
身体から、力が抜け、彼女は、その場に、静かに、崩れ落ちた。
最後に、彼女の目に映ったのは、燃え盛る、ドラコニアの、汚れた空と、その向こう側で、静かに、彼女を、見つめている、無数の、優しい、星々の光であった。
そして、彼女の意識は、完全に、途絶えた。
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