第201話 誓の腕輪
セシリア・オルレアンとの公式な婚約発表まで、あと三日。
その事実は、重い鉛の塊となってゼノン・アルトリウスの胃の腑に沈んでいた。
騎士団長の執務室。
彼は窓の外に広がる帝都の夜景を見下ろし、グラスの中の琥珀色の液体を揺らす。
光の海はきらびやかで、平和そのものだ。
だが、その光の届かない影で、一人の少女が息を殺して生きている。
彼女の幸福を奪い、偽りの婚約という名の舞台に上がろうとしている己の卑劣さに、ゼノンは吐き気を覚えた。
リアムの言葉は正しい。
これはリリスを守るための、そして帝国における自身の立場を固めるための、最も合理的な選択だ。
しかし、理性が首肯すればするほど、魂が悲鳴を上げた。
愛する女を日陰に置き、別の女の名を呼ぶ。
その裏切りに、俺は耐えられるのか。
ゼノンはグラスを壁に叩きつけようとして、すんでのところで思いとどまった。
衝動に身を任せるのは、弱い者のすることだ。
俺は、リリスのために強くあらねばならない。
ゼノンは私邸の地下通路を抜け、リアムが手配した馬車に乗り込んだ。
従者の服装に身をやつしたリリスが、すでに静かに待っていた。
彼女は何も問わない。
ただ、主人の命令に従うだけだ。
その従順さが、ゼノンの胸を一層締め付ける。
馬車は音もなく帝都の城壁を抜け、郊外の丘へと続く暗い道を登っていく。
やがて木々が開け、眼下に広がる帝都のパノラマと、頭上に降り注ぐ満天の星々が現れた。
星見の丘。
かつて父に連れられ、騎士になるのだと幼い夢を語った場所。
皮肉なものだ。
夢を叶えた今、俺は誰一人として、本当の意味で守れていない。
「寒いだろう」
ゼノンは自分のマントを外し、リリスの肩にかけた。
彼女は驚いて身を固くしたが、その温もりを拒むことはなかった。
二人は丘の頂上に腰を下ろす。
眼下の帝都の光は、まるで宝石箱をひっくり返したように美しい。
しかし、二人の瞳は、その光ではなく、遥か高みで永遠の理を刻む星々を見上げていた。
「……リリス」
ゼノンが静かに口を開く。
「セシリア嬢との婚約は、ただの芝居だ。……俺の心を占めるのは、過去も、今も、そして未来永劫、君だけだ」
彼はリリスの方を向き、その冷たい両手を取る。
「この欺瞞が終われば、俺は必ずお前を迎えに行く。……騎士団長の地位も、英雄の名も、すべてを捨ててでも。……だから、信じて待っていてほしい」
その言葉は、書斎で交わした誓いの反復。
だが、今この星空の下で紡がれることで、それは神聖な儀式のように重みを増していた。
リリスの瞳が、星の光を反射して潤む。
彼女は言葉を探すように唇を動かしたが、結局、何も言わずにただ強く頷いた。
ゼノンは懐から小さなベルベットの箱を取り出す。
中には、二つの銀の腕輪が収められていた。
それは月光を受けて冷たく輝き、繊細な蔦の模様が彫り込まれている。
よく見れば、それは蔦ではなく、茨の鎖のようにも見えた。
「婚約指輪は、セシリア嬢に渡さねばならない。……だが、俺の魂の契約者は君だ。……だから、これを受け取ってほしい」
ゼノンはリリスの左腕を取り、その細い手首に腕輪をはめた。
ひんやりとした金属の感触。
カチリ、と留め金が閉まる音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
まるで、新たな枷がはめられたかのように。
ゼノンはもう一つの腕輪を、自身の左腕につける。
同じデザイン、同じ冷たさ。
「これは、俺たちの誓いの証だ。……そして、俺がお前を縛る鎖でもある」
彼は自嘲するように微笑んだ。
「俺は、お前を自由にはしない。……俺という軛に繋ぎ、生涯離さない」
それは、愛の告白であり、同時に独善的な所有宣言でもあった。
だが、リリスにとって、その言葉は世界で最も甘美な福音だった。
彼女は腕輪にそっと触れる。
「……はい。……喜んで、ゼノン様の鎖に繋がれます。……永遠に」
その後、二人は言葉を交わさなかった。
ただ、身を寄せ合い、互いの体温を感じながら、夜空を流れる星を数えた。
リリスはゼノンの肩に頭を預ける。
鎧のない彼の体は温かく、力強い心臓の鼓動が背中を通して伝わってくる。
(ああ、このままでいたい。)
身分も、過去も、未来への不安も、すべてがこの星空の彼方へ溶けていくようだ。
今はただ、一人の男と一人の女がいるだけ。
ゼノンもまた、リリスの銀髪に頬を寄せ、その存在を確かめるように強く抱きしめていた。
彼女の儚さ、そしてその内にある鋼のような強さ。
そのすべてが愛おしい。
この腕の中にある温もりこそが、彼が守るべき世界のすべてだった。
どれほどの時間が過ぎたのか。
東の空が白み始め、一番星がその輝きを失いかける頃、魔法のような時間は終わりを告げた。
屋敷へ戻る馬車の中は、行きとは違う重い沈黙に満ちていた。
束の間の夢から覚め、再び冷たい現実が二人を待ち受けている。
ゼノンはリリスを侍女用の裏口まで送り届けた。
夜明け前の薄闇の中、二人は向かい合う。
「……行ってくれ」
ゼノンの声が掠れる。
これ以上共にいれば、離れがたくなってしまう。
リリスは頷き、背を向けようとした。
その瞬間、ゼノンは彼女の腕を掴み、引き寄せた。
そして、その震える唇に、自らの唇を重ねる。
それは、激しいものではなく、壊れ物に触れるような、優しく、そして悲しい別れのキスだった。
唇が離れる。
ゼノンは彼女の額に、もう一度だけ口づけを落とした。
「待っていてくれ、リリス」
「……はい」
涙をこらえ、絞り出すような声で答える。
リリスは振り返ることなく、闇の中へと消えていった。
一人残されたゼノンは、夜明けの冷たい空気の中で、しばらくその場に立ち尽くしていた。
左腕につけられた銀の腕輪が、彼の決意を確かめるように、ひんやりとした重さで存在を主張していた。
これから始まるのは、孤独な戦いだ。
だが、もう迷いはない。
すべては、愛する人を本当の光の下へと連れ出すために。
ゼノンは空を見上げた。




