ごめんなさい
大理石の廊下は、墓所のごとき沈黙に支配されていた。
リリスの、自らの命を供物として捧げるという狂気の提案は、三人の英雄たちの思考を、それぞれの迷宮へと突き落としていた。
フィオナの指先に宿る風の刃は、その輝きを失わぬまま、しかし、その切っ先は、確かな躊躇の色を宿して微かに揺れている。
魔族への憎悪という絶対の戒律が、目の前の少女の、常軌を逸した覚悟の前に、僅かながらその絶対性を揺らがされていた。
ゼノンの魂は、罪と憐憫の狭間で、もはや引き裂かれる寸前であった。
少女の悲痛な告白は、彼の騎士としての理想を根底から揺さぶる。
彼女を救うことは、帝国の軍人としての義務に背くこと。
しかし、彼女を見捨てることは、彼自身の人間としての魂を殺すこと。
灰色の瞳は、光を失い、ただ目の前の虚空を、救いなき答えを探し求めて彷徨っていた。
その中で、ただ一人、リアムだけが、冷徹な思考を維持していた。
彼の脳内では、天秤が目まぐるしく揺れ動いていた。
片方の皿には、リリスの提案がもたらすであろう、共和国に対する圧倒的な政治的優位という、計り知れない利益。
もう片方の皿には、この少女という存在そのものが孕む、予測不能なリスクと、この計画が失敗した際の、破滅的な結末。
彼は、帝国の牧師として、神ではなく、国家という、より現実的な主君に仕える者として、最も確実で、最も損失の少ない道を選ばなければならなかった。
その、張り詰めた糸のような均衡が、突如として破られたのは、廊下の奥から響いてきた、複数の、重々しい足音によってであった。
やがて、角の向こうから姿を現したのは、先程逃げるように去っていった執事に先導された、オルレアン侯爵その人であった。
侯爵は、祝宴の時とは打って変わって、その顔に油のような笑みを張り付かせながらも、その瞳の奥には、隠しようのない焦燥と怒りの色を浮かべていた。
彼の背後には、物々しい装飾の鎧に身を包んだ、十数名の私兵たちが、無言のまま控えている。
そのただならぬ空気に、三人の英雄たちの間に、新たな緊張が走った。
オルレアン侯爵は、ゼノンたちの前に進み出ると、まるで舞台役者のように、芝居がかった、大袈裟な身振りで深々と頭を下げた。
その声は、祝宴の喧騒を支配していた時の傲慢さとは裏腹に、媚びと屈従に満ちていた。
「おお、これはこれは、ゼノン様、リアム様、そしてフィオナ様!このオルレアン、なんとお詫びを申し上げればよいか!我が屋敷の不手際により、賓客であらせられる皆様に、これほどの不快の念をお与えしてしまいましたこと、返す言葉もございません!」
彼は、顔を上げると、その憎悪に満ちた視線を、リリスへと向けた。
「この卑劣なる品が、皆様のお気を悪くさせたとのこと、執事より聞き及びました!本来、お客様の夜の慰めとなるべきものが、かくも厚かましく、英雄様を煩わせるなど、あってはならぬこと!この罪、万死に値します!」
侯爵は、そう言い放つと、顎で背後の私兵たちに合図を送った。
屈強な男たちが、リリスの両側へと進み出て、その腕を、無慈悲に掴み上げた。
リリスの身体は、まるで壊れた人形のように、なすすべもなく宙に吊られる。
「さあ、英雄の皆様方、どうかお気を鎮めください。このような出来損ないのことは、お忘れいただき、改めて、我が共和国が誇る、至高の美をお選びいただきたい!今宵のために、貴族の子弟、近隣諸国から集めた絶世の美女、いずれも劣らぬ逸品を揃えておりますれば!さあ、さあ、どうか、今一度、水晶の間へ!」
その言葉は、リリスという存在を、完全に価値のない「不良品」として断じ、英雄たちの機嫌を取り結ぶための、卑屈な提案に満ちていた。
リアムは、その侯爵の下劣な芝居を、冷めた目で見つめていた。
彼の脳裏には、先程のリリスの、自らの命を賭した悲痛な願いが、一瞬だけ、蘇った。
確かに、彼女の提案は、常軌を逸してはいるが、成功すれば、帝国に莫大な利益をもたらすだろう。
その覚悟には、心を動かされるものがあった。
*だが、しかし…。*
リアムは、その一瞬の感傷を、即座に、冷たい理性で断ち切った。
*この娘は、あまりにも危険すぎる。その思考は、我々の常識の範疇を超えている。このような制御不能な駒を、帝国の未来を左右するゲームの盤上に置くことは、あまりにもリスクが高すぎる。たとえ九割九分の成功が見込めたとしても、残りの一分が、全てを破滅させる可能性を秘めている。俺の任務は、帝国に利益をもたらすことだが、それ以上に、帝国に損害を与えないことだ。*
彼の視線が、絶望に打ちひしがれるゼノンを捉えた。
*そして、何よりも、ゼノンだ。この娘の存在は、奴の魂を蝕む毒。これ以上、この娘を奴の傍に置けば、帝国の「断罪の槍」は、その刃を、内側から錆びつかせ、いずれは、その機能を完全に停止させるだろう。それだけは、絶対に避けなければならない。*
決断は、下された。
リアムは、いつもの、人好きのする笑みを、その顔に浮かべた。
「いやはや、オルレアン侯爵。これは、我々の側の問題。貴殿に非はございません。むしろ、我々の仲間が、少々、長旅の疲れで感傷的になっていただけのこと。ご配慮、痛み入ります。では、お言葉に甘えさせていただきましょうか」
その言葉は、リリスの提案を、完全に拒絶し、侯爵の提案を受け入れるという、政治的に、そして、最も安全な選択の表明であった。
リアムの、あまりにもあっさりと、そして、非情な決定。
それは、リリスにとって、ギロチンの刃が、その首筋に落ちてきたのと、同義であった。
彼女の視線が、最後の希望を託して、ゼノンへと向けられる。
しかし、彼は、何も言わなかった。
その肩は、敗北と無力感の重みに、力なく垂れ下がっている。
彼の沈黙は、どんな拒絶の言葉よりも、雄弁に、そして、残酷に、彼女の運命を告げていた。
ああ、やはり、そうか。
この人も、結局は、何もできないのだ。
私を救うことなど、できるはずもなかったのだ。
一瞬でも、彼に救済を夢見た、自分が、愚かだったのだ。
リリスの青い瞳から、最後の光が、完全に消え失せた。
それは、まるで星がその寿命を終え、冷たい暗黒へと沈んでいくかのような、静かで、しかし、決定的な死であった。
彼女の心は、再び、あの厚い氷の中に、閉ざされた。
侯爵の私兵たちが、リリスの腕を掴む手に、力を込めた。
彼女は、もはや何の抵抗も示さなかった。
ただ、引きずられるままに、その身体を、彼らに委ねる。
その、廊下の闇の奥へと、その姿が消えようとした、まさにその瞬間。
リリスは、力なく、顔を上げた。
その、もはや何の感情も映さない、ガラス玉のような瞳が、真っ直ぐに、ゼノンの姿を捉えた。
そして、その震える唇から、掠れた、囁くような声が、漏れた。
「……ごめんなさい」
その声は、あまりにも小さく、ゼノンの耳にしか、届かなかった。
それは、六年前、彼が、無垢な彼女に告げた、あの言葉。
しかし、その意味は、あまりにも異なっていた。
それは、英雄であるあなたに、救われる価値もない存在で、ごめんなさい。
それは、あなたの心を、苦しめてしまって、ごめんなさい。
それは、お母様を、救うことができなくて、ごめんなさい。
それは、この世に、生まれてきてしまって、ごめんなさい。
幾重にも、幾重にも重なった、絶望と、諦観と、そして、自己への呪詛が、その、たった一言に、込められていた。
ゼノンの身体が、まるで雷に打たれたかのように、激しく震えた。
その言葉は、見えない楔となって、彼の魂の、最も深い場所に、永遠に打ち込まれた。
リリスの姿は、無慈悲に、廊下の暗闇へと引きずり込まれ、見えなくなった。
遠ざかっていく彼女の背中に向かって、オルレアン侯爵の、粘着質な声が、追い打ちをかけるように響き渡った。
「英雄様方を失望させた、その大罪、その身に、たっぷりと、教えてやれ!二度と、人間様に逆らおうなどという、大それた考えが、浮かばぬようにな!」
その言葉に呼応するかのように、廊下の奥から、鈍い打撃音と、くぐもった悲鳴が、一度だけ、微かに聞こえてきた。
しかし、それも、すぐに、重厚な扉が閉められる音によって、完全に遮断された。
残されたのは、絶対的な沈黙と、その胸に、永遠に癒えることのない傷を刻まれた、一人の騎士の、絶望だけであった。
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