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奴隷魔族である私に、幸せは訪れない  作者: 竹の子筍
生まれてきてごめんなさい
20/99

ごめんなさい



大理石の廊下は、墓所のごとき沈黙に支配されていた。


リリスの、自らの命を供物として捧げるという狂気の提案は、三人の英雄たちの思考を、それぞれの迷宮へと突き落としていた。


フィオナの指先に宿る風の刃は、その輝きを失わぬまま、しかし、その切っ先は、確かな躊躇の色を宿して微かに揺れている。


魔族への憎悪という絶対の戒律が、目の前の少女の、常軌を逸した覚悟の前に、僅かながらその絶対性を揺らがされていた。


ゼノンの魂は、罪と憐憫の狭間で、もはや引き裂かれる寸前であった。


少女の悲痛な告白は、彼の騎士としての理想を根底から揺さぶる。


彼女を救うことは、帝国の軍人としての義務に背くこと。


しかし、彼女を見捨てることは、彼自身の人間としての魂を殺すこと。


灰色の瞳は、光を失い、ただ目の前の虚空を、救いなき答えを探し求めて彷徨っていた。


その中で、ただ一人、リアムだけが、冷徹な思考を維持していた。


彼の脳内では、天秤が目まぐるしく揺れ動いていた。


片方の皿には、リリスの提案がもたらすであろう、共和国に対する圧倒的な政治的優位という、計り知れない利益。


もう片方の皿には、この少女という存在そのものが孕む、予測不能なリスクと、この計画が失敗した際の、破滅的な結末。


彼は、帝国の牧師として、神ではなく、国家という、より現実的な主君に仕える者として、最も確実で、最も損失の少ない道を選ばなければならなかった。


その、張り詰めた糸のような均衡が、突如として破られたのは、廊下の奥から響いてきた、複数の、重々しい足音によってであった。


やがて、角の向こうから姿を現したのは、先程逃げるように去っていった執事に先導された、オルレアン侯爵その人であった。


侯爵は、祝宴の時とは打って変わって、その顔に油のような笑みを張り付かせながらも、その瞳の奥には、隠しようのない焦燥と怒りの色を浮かべていた。


彼の背後には、物々しい装飾の鎧に身を包んだ、十数名の私兵たちが、無言のまま控えている。


そのただならぬ空気に、三人の英雄たちの間に、新たな緊張が走った。


オルレアン侯爵は、ゼノンたちの前に進み出ると、まるで舞台役者のように、芝居がかった、大袈裟な身振りで深々と頭を下げた。


その声は、祝宴の喧騒を支配していた時の傲慢さとは裏腹に、媚びと屈従に満ちていた。


「おお、これはこれは、ゼノン様、リアム様、そしてフィオナ様!このオルレアン、なんとお詫びを申し上げればよいか!我が屋敷の不手際により、賓客であらせられる皆様に、これほどの不快の念をお与えしてしまいましたこと、返す言葉もございません!」


彼は、顔を上げると、その憎悪に満ちた視線を、リリスへと向けた。


「この卑劣なる品が、皆様のお気を悪くさせたとのこと、執事より聞き及びました!本来、お客様の夜の慰めとなるべきものが、かくも厚かましく、英雄様を煩わせるなど、あってはならぬこと!この罪、万死に値します!」


侯爵は、そう言い放つと、顎で背後の私兵たちに合図を送った。


屈強な男たちが、リリスの両側へと進み出て、その腕を、無慈悲に掴み上げた。


リリスの身体は、まるで壊れた人形のように、なすすべもなく宙に吊られる。


「さあ、英雄の皆様方、どうかお気を鎮めください。このような出来損ないのことは、お忘れいただき、改めて、我が共和国が誇る、至高の美をお選びいただきたい!今宵のために、貴族の子弟、近隣諸国から集めた絶世の美女、いずれも劣らぬ逸品を揃えておりますれば!さあ、さあ、どうか、今一度、水晶の間へ!」


その言葉は、リリスという存在を、完全に価値のない「不良品」として断じ、英雄たちの機嫌を取り結ぶための、卑屈な提案に満ちていた。


リアムは、その侯爵の下劣な芝居を、冷めた目で見つめていた。


彼の脳裏には、先程のリリスの、自らの命を賭した悲痛な願いが、一瞬だけ、蘇った。


確かに、彼女の提案は、常軌を逸してはいるが、成功すれば、帝国に莫大な利益をもたらすだろう。


その覚悟には、心を動かされるものがあった。


*だが、しかし…。*


リアムは、その一瞬の感傷を、即座に、冷たい理性で断ち切った。


*この娘は、あまりにも危険すぎる。その思考は、我々の常識の範疇を超えている。このような制御不能な駒を、帝国の未来を左右するゲームの盤上に置くことは、あまりにもリスクが高すぎる。たとえ九割九分の成功が見込めたとしても、残りの一分が、全てを破滅させる可能性を秘めている。俺の任務は、帝国に利益をもたらすことだが、それ以上に、帝国に損害を与えないことだ。*


彼の視線が、絶望に打ちひしがれるゼノンを捉えた。


*そして、何よりも、ゼノンだ。この娘の存在は、奴の魂を蝕む毒。これ以上、この娘を奴の傍に置けば、帝国の「断罪の槍」は、その刃を、内側から錆びつかせ、いずれは、その機能を完全に停止させるだろう。それだけは、絶対に避けなければならない。*


決断は、下された。


リアムは、いつもの、人好きのする笑みを、その顔に浮かべた。


「いやはや、オルレアン侯爵。これは、我々の側の問題。貴殿に非はございません。むしろ、我々の仲間が、少々、長旅の疲れで感傷的になっていただけのこと。ご配慮、痛み入ります。では、お言葉に甘えさせていただきましょうか」


その言葉は、リリスの提案を、完全に拒絶し、侯爵の提案を受け入れるという、政治的に、そして、最も安全な選択の表明であった。


リアムの、あまりにもあっさりと、そして、非情な決定。


それは、リリスにとって、ギロチンの刃が、その首筋に落ちてきたのと、同義であった。


彼女の視線が、最後の希望を託して、ゼノンへと向けられる。


しかし、彼は、何も言わなかった。


その肩は、敗北と無力感の重みに、力なく垂れ下がっている。


彼の沈黙は、どんな拒絶の言葉よりも、雄弁に、そして、残酷に、彼女の運命を告げていた。


ああ、やはり、そうか。


この人も、結局は、何もできないのだ。


私を救うことなど、できるはずもなかったのだ。


一瞬でも、彼に救済を夢見た、自分が、愚かだったのだ。


リリスの青い瞳から、最後の光が、完全に消え失せた。


それは、まるで星がその寿命を終え、冷たい暗黒へと沈んでいくかのような、静かで、しかし、決定的な死であった。


彼女の心は、再び、あの厚い氷の中に、閉ざされた。


侯爵の私兵たちが、リリスの腕を掴む手に、力を込めた。


彼女は、もはや何の抵抗も示さなかった。


ただ、引きずられるままに、その身体を、彼らに委ねる。


その、廊下の闇の奥へと、その姿が消えようとした、まさにその瞬間。


リリスは、力なく、顔を上げた。


その、もはや何の感情も映さない、ガラス玉のような瞳が、真っ直ぐに、ゼノンの姿を捉えた。


そして、その震える唇から、掠れた、囁くような声が、漏れた。


「……ごめんなさい」


その声は、あまりにも小さく、ゼノンの耳にしか、届かなかった。


それは、六年前、彼が、無垢な彼女に告げた、あの言葉。


しかし、その意味は、あまりにも異なっていた。


それは、英雄であるあなたに、救われる価値もない存在で、ごめんなさい。


それは、あなたの心を、苦しめてしまって、ごめんなさい。


それは、お母様を、救うことができなくて、ごめんなさい。


それは、この世に、生まれてきてしまって、ごめんなさい。


幾重にも、幾重にも重なった、絶望と、諦観と、そして、自己への呪詛が、その、たった一言に、込められていた。


ゼノンの身体が、まるで雷に打たれたかのように、激しく震えた。


その言葉は、見えない楔となって、彼の魂の、最も深い場所に、永遠に打ち込まれた。


リリスの姿は、無慈悲に、廊下の暗闇へと引きずり込まれ、見えなくなった。


遠ざかっていく彼女の背中に向かって、オルレアン侯爵の、粘着質な声が、追い打ちをかけるように響き渡った。


「英雄様方を失望させた、その大罪、その身に、たっぷりと、教えてやれ!二度と、人間様に逆らおうなどという、大それた考えが、浮かばぬようにな!」


その言葉に呼応するかのように、廊下の奥から、鈍い打撃音と、くぐもった悲鳴が、一度だけ、微かに聞こえてきた。


しかし、それも、すぐに、重厚な扉が閉められる音によって、完全に遮断された。


残されたのは、絶対的な沈黙と、その胸に、永遠に癒えることのない傷を刻まれた、一人の騎士の、絶望だけであった。



【作者よりお願い】


もし、この物語の中で

心に残ったものが少しでもあったなら。


苦しかった、

切なかった、

それでも続きを見届けたい――

そう感じていただけたなら。


広告の下にある【☆☆☆☆☆】をタップし、

【★★★★★】をつけていただけると幸いです。


皆さまの静かな応援が、

この物語を最後まで書き続ける力になります。


どうか、よろしくお願いいたします。

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