生まれべからざる少女
夜の最も深い時刻、男のいびきが部屋の静寂を醜く切り裂いていた。
アイリスの身体は、まるで借り物のように冷え切り、感覚を失っている。
男が満足と共に眠りに落ちたその瞬間、彼女の顔から全ての表情が抜け落ちた。
数時間前まで浮かべていた魅惑的な微笑は跡形もなく消え去り、そこには死んだ魚の眼のような、どこにも焦点を結ばない虚ろな瞳だけが残された。
肉体を蹂躙された後の気怠さと、魂の芯まで凍てつかせるような虚無感だけが、彼女がまだ生きているという唯一の証左であった。
*また一つ、夜が終わった。私の時間が、また一つ、削られた。*
彼女は音を立てぬよう、細心の注意を払って寝台から抜け出した。
床に散らばった豪奢なドレスの残骸を一瞥するも、その心には何の感情も浮かばない。
それはもはや美しい衣服ではなく、彼女の尊厳を覆い隠すための、ただの布切れに過ぎなかった。
昨夜の酒と男の体臭が混じり合った濁った空気を肺に入れる度、胃の腑から不快なものがせり上がってくる。
彼女はそれを、意思の力だけで喉の奥へと押し戻した。
自室の扉をゆっくりと開けると、そこには聖域のような静けさが満ちていた。
小さな寝台の上で、リリスが安らかな寝息を立てている。
彼女の頬は薔薇色に染まり、その唇は幸福な夢でも見ているかのように微かに綻んでいる。
アイリスは娘の傍らに跪き、その寝顔を見つめた。
この無垢なる存在。
彼女の暗黒の世界に差し込む、唯一にして絶対の光。
しかしその光は、同時に彼女の罪を、彼女が立つ汚泥の深さを、無慈悲なまでに照らし出す。
*ああ、リリス。私の可愛い小鳥。あなたが眠るこの部屋のすぐ下で、あなたの母がどのような獣にその身を喰らわせていたか、あなたは知る由もない。*
アイリスは、震える指先でリリスの柔らかな髪にそっと触れた。
この温もり、この匂い、この存在そのものが、彼女が人間としての最後の輪郭を保つための唯一の理由であった。
この子のために、彼女は人であり続けなければならなかった。
たとえ、その魂がどれほど穢れ、摩耗しようとも。
彼女の意識は、否応なく過去へと引き戻される。
魔族領の辺境で、貧しくも穏やかに暮らしていた日々。
血は薄く、魔力もほとんど持たない「凡人」クラスの魔族。
それでも、そこにはささやかな尊厳と、明日への淡い期待があった。
だが、神聖ルミナール帝国との戦争が全てを焼き尽くした。
故郷は炎に包まれ、彼女は商品として捕えられ、人買いの手を経て、このドラコニア共和国の最も華やかな地獄、「バラ園」へと売り渡された。
妊娠しにくいとされる魔族の体質。
それは、この劣悪な環境における最後の砦のはずだった。
しかし、運命は彼女を嘲笑った。
避妊という概念すら存在しない日々の果てに、奇跡とも呪いとも呼ぶべき命が、彼女の内に宿った。
父の名も知らぬ娘、リリス。
絶望の淵で、彼女は死ぬことすら許されなくなった。
その時だ。
アイリスの脳裏に、女主人の顔が、その蛇のように冷たい目が、ありありと浮かび上がった。
リリスが生まれた後、乳飲み子を抱いて途方に暮れる彼女に、一つの「契約」を提示したのだ。
「アイリス。あなたがこの店で一番の売れっ子になり、私に十分な利益をもたらし続けるなら、その娘にはいつか自由を与えてやろう。この地獄から出して、外の世界で普通の娘として生きる道を。だが、もしあなたが怠けたり、逃げ出そうとしたりすれば…この赤ん坊がどうなるか、賢いあなたならわかるだろう?」
その言葉は、甘い毒であり、地獄の蜘蛛の糸だった。
リリスを自由にできる。
その可能性は、アイリスの砕け散った心に、再び枷を嵌めるには十分すぎるほどの力を持っていた。
それ以来、彼女の労働は意味を変えた。
それはもはや単なる隷属ではなく、娘の未来を購うための、血を吐くような聖戦となったのだ。
アイリスは静かに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
東の空が、インクを滲ませたように白み始めている。
ガス灯の光が一つ、また一つと消えていき、ドラコニア共和国の首都が、その巨大な輪郭を現し始める。
彼女はこの街を憎んでいた。
彼女から全てを奪い、尊厳を踏みにじり続けるこの商業国家を。
*自由…*
その言葉が、彼女の口の中で砂のようにざらついた。
自分自身がそれを手にすることは、もはや永遠にないだろう。
彼女の運命は、この「バラ園」という名の、美しくも腐臭漂う檻の中で朽ち果てるのだ。
だが、リリスは違う。
あの子は、この窓の外に広がる世界で、太陽の光を浴び、自由に空気を吸い、誰かに愛されて生きる権利がある。
そのために、自分はいくらでも身を売ろう。
魂を削ろう。
この肉体が塵に帰るその日まで、との契約を果たし、娘のための代価を支払い続ける。
薄明かりが、アイリスの横顔を彫像のように冷たく照らし出していた。
その瞳の奥で、絶望の闇よりもなお深い、母性という名の業火が、静かに、しかし決して消えることなく燃え盛っていた。
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