計算外
執務机に置かれた魔導ランプの炎が、微かに揺らめいて壁に影を伸ばす。
リアムは革張りの椅子に深く沈み込み、手にした報告書を見つめていた。
文字の羅列が意味をなさず、ただの黒い染みとして瞳に映る。
部屋を満たすのは、雨上がりの湿った空気と、耳鳴りのような静寂のみである。
彼は書類を机に放り出し、眉間を親指と中指で強く揉んだ。
脳裏に焼き付いているのは、血の気を失った少女の顔と、その口から紡がれたあまりにも完璧な嘘である。
「リアム様は、何も知りません」
リリスは言った。
瀕死の重傷を負い、片腕を失った状態で、自分を死地へ追いやった張本人を庇ったのだ。
あの瞬間、リアムは呼吸を止めた。
彼女がゼノンに真実を告げれば、自分は破滅していただろう。
ゼノンは正義の人だ。
友が己の愛する者を道具として使い潰そうとしたと知れば、その断罪の槍は躊躇なくリアムに向けられたはずだ。
だが、リリスはそうしなかった。
彼女は自分の身体を切り刻んだ刃を隠し、それを「自分の過失」という布で覆い隠した。
何のために。
ゼノンの心を、守るためだ。
ゼノンが友を失い、孤独な光の中で孤立することを防ぐために、彼女は自ら泥を被り、悪役を演じた。
リアムは立ち上がり、サイドボードのワインボトルに手を伸ばす。
グラスに注ぐ紫色の液体が、血のように重く揺れる。
彼はそれを一気に煽ったが、アルコールが喉を焼くだけで、胸の奥の冷たさは消えない。
計算外だ。
彼はリリスを、管理番号704という便利な道具として定義していた。
感情を殺し、命令に従い、使い潰せば代わりの効く消耗品。
そう思っていた。
だが、あの少女が見せた献身は、道具の機能を超越していた。
あれは、意志だ。
それも、鋼鉄のように強固で、狂気的なまでに純粋な愛の意志だ。
リアムはグラスを握りしめる指に力がこもるのを感じる。
自分は、何をしたのだ。
英雄の光を守るという大義名分を掲げ、無垢な少女を地獄へ蹴り落とした。
そして、その少女に救われた。
彼女の犠牲の上に胡坐をかき、友人の顔をしてゼノンの隣に立ち続けている。
嘔吐感がこみ上げる。
鏡に映る自分の顔を見る。
そこにあるのは、人好きのする牧師の仮面を被った、醜悪な策士の姿だった。
「……笑えないな」
リアムは自嘲気味に呟く。
唇が歪み、乾いた音が漏れる。
彼は認めた。
自分は敗北したのだと。
策謀においてではなく、魂の気高さにおいて、あの娼婦上がりの少女に完敗したのだ。
もはや、彼女をただの道具として見ることはできない。
彼女は共犯者だ。
ゼノン・アークライトという光を支えるために、共に闇を這いずり、泥を啜る同志だ。
リアムはグラスを置き、再び椅子に座る。
机の引き出しから、新しい羊皮紙を取り出した。
彼はペンを執る。
リリスに関する報告書の草案。
フィオナや軍上層部に対し、彼女の失態を隠蔽し、その価値を再定義するための偽装工作。
指が滑らかに動く。
罪悪感は消えない。
だが、その重みが、今の彼を突き動かす燃料となる。
「生きろ、リリス」
彼はインクの匂いの中で、祈るように、あるいは呪うように呟く。
「お前がその嘘を貫く限り、私もまた、お前のために嘘を積み重ねよう」
それは、冷徹な策士が初めて抱いた、計算外の敬意と贖罪の誓いであった。




