魔族で奴隷兵だから
深夜の静寂を破り、重厚な扉が乱暴に蹴り開けられた。
吹き込む雨風と共に、白銀の鎧を纏ったゼノンがホールへ足を踏み入れる。
彼の腕の中には、自身の白いマントに包まれた小さな塊があった。
マントの白地は、見るも無惨な赤黒い染みで汚され、泥水が滴り落ちて床を汚している。
夜警をしていた老齢の執事が駆け寄り、息を呑んで立ち尽くした。
騒ぎを聞きつけたマサが、奥から顔を出し、悲鳴を上げて口元を覆う。
ゼノンの顔には、戦場でも見せたことのない激しい激情が張り付いていた。
彼は誰の言葉も待たず、血走った眼で虚空を睨みつけるように叫んだ。
「医者を呼べ! 最高の治癒師だ! 今すぐに!」
その声は雷鳴のように屋敷を震わせ、使用人たちを恐怖で凍りつかせた。
階段の上から、衣擦れの音が近づいてくる。
リアムが、あくまで冷静な足取りで降りてきた。
彼は手摺に手をかけ、眼下の惨状を見下ろす。
リリスの左腕があったはずの場所が、マントの下で不自然に凹んでいるのを認めた瞬間、彼の一瞬だけ眉が動いた。
計算違いだ。
腕一本とは、高くついた。
だが、彼は即座に「憂慮する友」の仮面を完璧に被り直す。
階段を駆け下り、ゼノンの前で立ち止まる。
「ゼノン、無事だったか……! なんという怪我だ」
彼はリリスの頬に手を伸ばし、脈を確認する仕草をする。
「すぐに軍属病院へ搬送しよう。私の治癒魔法で応急処置をする」
リアムは手際よく指示を出し、使用人たちを動かそうとする。
その声には動揺の色はなく、あくまで不測の事態に対処する指揮官のそれであった。
「触るな」
ゼノンが低く唸るような声を発した。
彼はリリスを抱く腕に力を込め、リアムの手を拒絶するように身体を引く。
拒絶。
二十年来の戦友であり、背中を預け合ってきた相手に対し、初めて向けるあからさまな敵意。
リアムの手が空中で止まる。
ゼノンの双眸が、至近距離からリアムを射抜く。
「野良の魔物だと言ったな。……調査部隊に任せると」
一歩、踏み出す。
リアムは後退らない。
「そうだ。報告ではそう聞いていた。……だが、予想以上に強力な個体だったようだ」
「嘘をつくな!」
ゼノンの怒号が炸裂した。
彼はリリスを抱えたまま、リアムの胸倉を掴むかのような勢いで詰め寄る。
「現場を見た。……あれは野良などではない。組織された魔導師と、召喚された悪魔の群れだ」
ゼノンは言葉を吐き出すたびに、怒りで声を震わせる。
「そして、お前の言う調査部隊……。奴らはリリスを助けようともせず、森ごと焼き払おうとしていた」
鴉部隊の焼却魔法。
あの紅蓮の炎が、リリスに向けられていたことを、ゼノンは肌で感じ取っていた。
リアムは静かにゼノンの目を見返す。
ここで狼狽えれば、全てが終わる。
「……現場の混乱があったのだろう。部隊も、融合級の敵に遭遇してパニックになっていたのかもしれない」
彼は論点をずらし、あくまで事故として処理しようとする。
「リリスがなぜあそこにいたのか、私にも分からない。彼女は部屋にいるはずだった」
「それも嘘だ」
ゼノンは即座に否定する。
「温室の明かりも、書き置きも、あまりに出来すぎていた。……お前が用意したのだろう、リアム」
確信を突く言葉。
リアムは口を結ぶ。
言い訳が通じない領域に、ゼノンは踏み込んでいた。
ゼノンはリリスの痩せた体を、壊れ物のように抱き直す。
マントの隙間から、泥に汚れた彼女の首輪が見える。
管理番号704。
その無機質な数字が、ゼノンの理性を焼き切る。
「お前は、リリスを特務兵として登録した時、言ったな。……生存権を確保するためだと」
ゼノンの瞳から、涙とも汗ともつかない雫がこぼれ落ちる。
「だが、これはなんだ。……この傷は、この扱いは、彼女を生かすためのものなのか」
彼は声を絞り出す。
「答えろ、リアム。……お前は今まで、俺の知らないところで、この子に何をさせていたんだ」
問いかけは、悲痛な叫びとなってホールに反響した。
リアムは沈黙する。
答えることはできない。
汚れ仕事。
暗殺。
囮。
その全てが、目の前の輝かしき英雄を守るための泥濘であったとしても、今のゼノンには決して届かない。
二人の間に横たわる信頼という名の橋が、音を立てて崩れ落ちていく。
マサが震える声で告げた。
「旦那様……お湯と、包帯の準備が……」
ゼノンはリアムから視線を外し、リリスを抱いて奥の部屋へと歩き出す。
その背中は、かつてないほど孤独で、そして怒りに燃えていた。
リアムはホールに一人取り残され、握りしめた拳の中で爪が皮膚を食い破る痛みだけを感じていた。




