道具は壊れるまで動く
冷たい雨が降り注ぎ、森の木々が風に揺れて唸り声を上げる。
リリスは巨大な老木の根元、泥と落ち葉が堆積した窪みに身を潜めていた。
荒い息遣いを殺し、自身の左腕を見下ろす。
肘から先は、もはや人間の肉体としての形を保っていない。
黒いタールのような粘液が皮膚を溶かし、骨を露出し、毒素が血管を遡って心臓を目指している。
指先は動かず、感覚もない。
あるのは、肩口まで広がりつつある灼けるような激痛と、壊死した肉が放つ鼻を突く異臭のみ。
このままでは死ぬ。
毒が胴体に達すれば、再生能力を持つ彼女の体であっても耐えられない。
リリスは震える右手で、腰の短剣を引き抜く。
銀色の刃が、雷光を反射して一瞬だけ光る。
迷っている時間はない。
彼女は奥歯が砕けるほど噛み締め、短剣を左肘の関節、まだ生きている肉との境界線に当てた。
「……んぐっ!」
刃を引く。
肉が裂け、鮮血が泥水に混じる。
骨に当たり、刃が止まる。
リリスは呼吸を止め、体重を乗せてさらに深く、骨の隙間へ刃をねじ込む。
激痛が脳を焼き、視界が白く明滅する。
だが、手は止めない。
関節を外し、筋繊維を断ち切る。
ボト、という湿った音と共に、黒く変色した左前腕が泥の上に落ちた。
リリスは悲鳴を喉の奥で押し殺し、涙と汗に塗れた顔を上げる。
切断面から血が噴き出す。
彼女は残った右手をかざし、詠唱を紡ぐ。
「渇望する根よ、我が血肉を糧とし、命の器を塞げ。
棘を以て縛り、赤き雫を留めよ」
右腕から伸びた細い茨が、切断面に巻き付き、血管を直接締め上げる。
肉に食い込む棘が、新たな激痛をもたらすが、出血は止まる。
リリスは切断された自分の左腕を拾い上げる。
それはもう、自分の一部ではなく、ただの腐りかけた肉塊である。
道具としての思考が、感情を塗り潰す。
敵は血の臭いを追ってくる。
ならば、これを餌にする。
彼女は茨を操作し、左腕を少し離れた茂みの中に放り投げた。
さらに、その周囲の地面に、隠蔽した茨の罠を張り巡らせる。
「地に潜む餓狼の牙よ、愚かなる獲物を待ち受けよ。
踏み入る者に死の抱擁を、逃れ得ぬ鉄槌を下せ」
泥の中に潜った茨が、獲物を感知して爆発的に跳ね上がる準備を整える。
これで数分、あるいは数十秒は稼げるはずだ。
リリスは泥だらけの体を引きずり、再び走り出す。
バランスが崩れ、何度も木に肩をぶつける。
失血による眩暈が、世界を歪ませる。
それでも足は止めない。
リアムへの通信は繋がった。
救援が来るまで、這ってでも生き延びる。
森の空気が変わる。
腐敗臭とは異なる、焦げた硫黄の臭いが鼻をつく。
前方から、キィキィという耳障りな鳴き声が聞こえる。
リリスは足を止め、闇を見透かす。
木の枝に、岩陰に、無数の赤い目が光っている。
小柄だが鋭い爪と牙を持つ、赤黒い皮膚の悪魔たち。
下級悪魔インプの群れである。
一匹や二匹ではない。
三十、いや五十はいる。
「……召喚魔法」
主教の手によるものか。
インプたちがリリスを認め、口汚い嘲笑のような声を上げて包囲を縮める。
後方からは、木々をなぎ倒すような魔力の波動と、主教の狂った笑い声が近づいてくる。
罠は突破されたか、あるいは無視されたか。
前門に悪魔の群れ。
後門に融合級の主教。
退路はない。
リリスは背を大木に預け、右手だけで茨を構える。
雨が容赦なく降り注ぎ、失った左腕の幻肢痛が疼く。
首輪が冷たく首を締め付ける。
ここで終わりか。
エヴァに別れを告げたのに。
自分は使い捨ての道具として、こんな名もなき森の泥の中で朽ち果てるのか。
インプの一匹が飛びかかってくる。
「散れ――【紅茨】」
リリスは茨を突き出し、空中のインプを串刺しにする。
だが、その隙を突いて別の二匹が左右から襲いかかる。
爪が太腿を裂き、肩を食い破る。
「あっ……!」
リリスは茨を振り回し、群がる悪魔を薙ぎ払うが、数が多すぎる。
傷が増え、血が流れる。
再生が追いつかない。
魔力も枯渇しつつある。
視界の端に、木々の間から悠然と歩み寄る主教の姿が見えた。
彼は腐敗した左腕を足で踏み潰しながら、愉悦に歪んだ顔でリリスを見つめている。
「見つけたぞ、愛しい実験動物め」
死の宣告。
リリスは血反吐を吐きながら、それでも折れない瞳で敵を睨み据えた。
道具は壊れるまで動く。
それが、唯一残された彼女の矜持だった。




