ゼノン様のために
街道沿いの宿場町は、夜の帳が下りると共に、別の顔を見せる。
旅の疲れを酒で紛らわす男たちの喧騒と、安酒場の油臭い空気が通りに満ちる。
その一角にある酒場「風見鶏亭」の扉が開き、一人の少女が足を踏み入れた。
亜麻色のウィッグで銀髪を隠し、地味な行商人の服を纏ったリリスである。
手には籠を持ち、中には香草や小さな細工物が無造作に入っている。
彼女は怯えたように肩をすくめ、カウンターの端に座る男へ視線を送る。
男は共和国のスパイであり、今回の標的である。
リリスは深呼吸をし、表情筋を緩め、無垢な獲物を演じる。
男の隣に滑り込み、わざとらしく籠を落とす。
中身が床に散らばり、男が舌打ちをして足元を見る。
「あ、ごめんなさい……! すぐに拾いますから……」
リリスは涙目で男を見上げ、胸元を強調するように屈み込む。
男の視線がねっとりと彼女の身体を舐める。
警戒心が欲情へとすり替わる瞬間を、リリスは見逃さない。
「旦那様、もしよろしければ……お詫びに一杯、奢らせてください」
上目遣いで袖を引く。
男は下卑た笑みを浮かべ、リリスの腰に手を回した。
酒場の二階、薄汚い貸し部屋。
男はリリスをベッドに押し倒し、荒い息を吐く。
リリスは抵抗するふりをして、男の懐を探る。
「待って……旦那様、私、初めてで……怖いんです」
震える声で囁き、男の自尊心をくすぐる。
「優しくしてくれたら、何でも話します……旦那様のお仕事のお話とか、聞きたいな」
男は気を良くし、酒の勢いもあって、帝国の検問所の抜け穴や、仲間の潜伏先を饒舌に語り始める。
リリスはその全てを記憶し、男の唇が自分の首筋に触れた瞬間、指先に仕込んだ針を男のうなじへ突き立てた。
「ぐっ……」
男が白目を剥き、痙攣する。
即効性の神経毒。
声も出せず、男の体から力が抜けていく。
リリスは冷ややかに男を押しのけ、ベッドから降りる。
「……お喋りな人は嫌いじゃありませんが、今は静かにしてください」
彼女は男の懐から手帳と暗号表を抜き取り、懐にしまう。
死体の処理は必要ない。
茨を出すまでもない。
ただの心臓麻痺として処理されるだろう。
リリスは鏡の前で乱れた服を整え、ウィッグを直す。
部屋を出る際、彼女は死体に向かって一度だけ完璧なカーテシーを披露した。
「良い夢を、旦那様」
「任務完了。……帰還します」
同時刻、帝都ルミナリス。
ゼノンはリリスの部屋の前に立ち、ノックをした。
返事はない。
静寂だけが廊下に漂っている。
「リリス? 入るぞ」
彼はドアノブを回し、部屋へと入る。
室内は暗く、ベッドは整えられたままである。
リリスの姿はない。
ゼノンは眉を顰め、机の上を見る。
一枚の書き置きと、読みかけの魔導書が置かれている。
ゼノン様へ。
今夜は月の光が綺麗ですので、中庭の温室で瞑想を行います。
少し遅くなりますが、ご心配なさらないでください
筆跡はリリスのものだ。
その横には、マサが用意したであろう冷めたハーブティーがある。
全てが自然で、彼女が屋敷の敷地内にいることを示唆している。
だが、ゼノンの戦士としての勘が、微細な違和感を訴える。
空気の澱み。
生活感の欠落。
まるで、舞台セットのように完璧すぎる。
ゼノンは書き置きを手に取る。
紙の質感が指に触れる。
インクの匂い。
彼は窓辺に歩み寄り、カーテンを開けて中庭を見下ろす。
温室の方角には明かりが灯っている。
確かに、あそこに誰かがいるように見える。
しかし、あの明かりは揺らぎがない。
魔法による光源か、あるいはただのランプか。
ゼノンは紙を握りしめる。
なぜ、こんなにも胸がざわつくのか。
リリスは従順で、健気で、この屋敷に馴染もうと努力している。
疑うべき要素などないはずだ。
それでも、彼女の瞳の奥にある、決して光が届かない闇を思い出すたび、ゼノンは不安に駆られる。
彼女は本当に、そこで瞑想しているのか。
それとも、もっと深く、暗い場所へ沈んでいってしまったのではないか。
「……リリス」
ゼノンは低く呟き、部屋を出る。
確かめに行くべきか、それとも彼女のプライベートを尊重すべきか。
廊下に立つ銀色の鎧の騎士は、見えない影との戦いに苦悩していた。
その背後で、リアムが仕掛けた「不在のアリバイ」という名の魔法が、静かに機能し続けていた。




