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生存価値を

またの日、フィオナに呼び出された。


漆黒の塗装が施された馬車が、帝都の石畳を軋ませて進む。


窓ガラスの向こうでは、ガス灯の光が流星のように後方へと飛び去っていく。


車内には重苦しい沈黙が満ちている。


リリスは座席の端に背筋を伸ばして座り、膝の上で両手を重ねている。


その首には銀色の首輪が嵌められ、豪奢なドレスの襟元から冷たい輝きを放っている。


対面に座るフィオナは、琥珀色の瞳でリリスを一瞥し、扇で口元を隠した。


「いいこと、704番」


冷ややかな声が空気を震わせる。


「今夜の貴女は、帝国の寛容さと支配力を示すための装飾品よ。余計な言葉は不要。ただそこにいて、無様に笑っていればいいの」


フィオナは扇を閉じ、リリスの喉元を指す。


「吠えれば殺す。噛みつけば殺す。……分かっているわね?」


リリスは深く頭を下げる。


「はい、フィオナ様。心得ております」


声に抑揚はない。


彼女は自身の役割を完全に理解している。


自分は見世物であり、同時に猛獣使いの力量を示すための獣である。


恐怖も屈辱もない。


ただ、与えられた任務を遂行するための思考だけが、脳内で冷徹に回転していた。


馬車が停止し、従僕が扉を開ける。


冷たい夜風と共に、会場から漏れ出る光と音楽、そして香水の匂いが押し寄せる。


リリスはフィオナの後に続き、赤絨毯の上へ足を踏み出した。


大広間の扉が開く。


数百の視線が一斉に突き刺さる。


会話が途切れ、さざ波のような囁きが広がる。


「あれが、例の……」


「魔族の生き残りか」


「美しいが、どこかおぞましいな」


好奇、侮蔑、憐憫、そして隠しきれない欲望。


粘り気のある視線が、リリスの肌を撫で回す。


リリスは視線を伏せ、フィオナの影のように一歩下がって控える。


背筋を伸ばしすぎず、かといって卑屈になりすぎない絶妙な角度で首を垂れる。


その姿は、完全に調教された美しい愛玩動物そのものであった。


フィオナが顎を上げ、堂々と歩みを進める。


リリスはその背中を追い、貴族たちの間を縫うように進む。


ドレスの裾が擦れる音だけが、彼女の存在を主張していた。


「やあ、フィオナ殿。……これが噂の新しいペットかね?」


恰幅の良い男が、ワイングラス片手に近づいてくる。


軍需産業を牛耳るシュトラウス男爵である。


その背後には、取り巻きの貴族たちが群がっている。


フィオナは社交的な笑みを浮かべる。


「ええ、男爵。帝国の技術局が丹精込めて躾けましたわ。……挨拶なさい」


促され、リリスはドレスの裾を摘み、優雅に膝を折る。


カーテシーの角度、指先の位置、睫毛の伏せ方。


全てが完璧な礼法に則っている。


「お初にお目にかかります、旦那様方。……管理番号704と申します」


名前ではなく番号を名乗る。


その行為が、貴族たちの歪んだ優越感を刺激する。


男爵は下卑た笑い声を上げ、リリスの顎先に指を這わせた。


「ほう、言葉も話せるのか。魔族にしては上出来だ」


指先が頬を撫で、首輪の金具を弾く。


「だが、所詮は獣だ。……どうだね、芸の一つでも見せては」


周囲から笑いが漏れる。


リリスは抵抗しない。


男爵の視線を受け入れ、むしろ自ら頬をすり寄せるような仕草を見せる。


「はい。私は愚かな獣でございます。……こうして偉大な皆様の御前に立てることだけで、身に余る光栄に震えております」


彼女は濡れたような瞳を上げ、男爵を見つめる。


「どうか、この卑しい身にご慈悲を。……帝国の繁栄のために、どのような命令にも従います」


その声は甘く、そして哀れを誘う。


自らを徹底的に卑下し、相手を持ち上げる。


男爵の自尊心は肥大し、警戒心は霧散していく。


「はっはっは! 殊勝な心がけだ。……ゼノン卿も酔狂なことだが、これほど従順なら使い道もあるだろう」


男爵は気分を良くし、ワインをあおる。


リリスはすかさず空いたグラスを受け取り、給仕からボトルを奪って注ぐ。


その際、わざと男爵の袖口に触れ、彼の手元を見る。


持っている指輪の紋章。


情報によると、それは北部戦線への軍需物資輸送を担当する商会のものだ。


「旦那様、その指輪……とても素敵です。北の氷雪地帯で採れる希少な宝石とお見受けします」


リリスは無知を装って尋ねる。


「北……? ああ、そういえば近々、あちらの方へ大きな荷物が動くのでしたか?」


男爵は顔を赤らめ、得意げに口を開く。


「ほう、目が高いな。そうだ、来週には北部の要塞へ新型の魔導砲を一斉輸送する。……我が商会の一大事業だ」


彼は声を潜めるふりをして、周囲に聞こえるように続ける。


「黒鉄の巨神計画だ。これが成功すれば、魔族どもなど一撃で消し炭よ」


「まあ、素晴らしい……」


リリスは感嘆の声を上げ、拍手を送る。


「帝国軍の力は偉大ですね。……輸送ルートは、やはり安全な街道を通られるのですか?」


「無論だ。サラスを経由し、渓谷沿いに進む。……あそこは我が軍の警備が手薄だが、速度優先だからな」


男爵は笑う。


リリスも微笑む。


その笑顔の下で、彼女は情報を冷徹に記録していた。


新型魔導砲の輸送時期、ルート、そして警備の脆弱性。


すべてが、ゼノンやリアムにとって有益なカードとなる。


彼女はさらに男爵を持ち上げ、派閥間の対立や、次の予算会議での根回しについても聞き出す。


男爵にとって、彼女はただの「無知で美しい聞き役」に過ぎない。


魔族の娘が、高度な諜報活動を行っているなどとは、夢にも思わないのだ。


その様子を、少し離れた場所からフィオナが見ていた。


彼女は扇で顔を隠し、目を細める。


リリスは男爵に酌をし、談笑しながらも、視線は決して泳がず、周囲の会話にも耳を傾けている。


他の貴族たちも、リリスの美貌と従順さに気を許し、次々と彼女に話しかけている。


その中心で、リリスは完璧な「道化」を演じきっている。


フィオナは認めるしかなかった。


彼女の価値は、単なる暗殺者だけに留まらない。


人の心の隙間に入り込み、情報を抜き取る毒の花。


「……食えない子ね」


フィオナは呟く。


嫌悪感は消えない。


だが、その有用性は無視できないレベルに達している。


ゼノンが拾ったのは、狂犬ではなく、より狡猾で危険な何かだったのかもしれない。


夜会が終わり、再び馬車に乗り込む。


扉が閉まり、静寂が戻る。


リリスは即座に表情を消し、人形のような無機質な顔に戻った。


フィオナは頬杖をつき、リリスを見る。


「……上手くやったわね。男爵はご満悦だったわ」


「ありがとうございます」


「北部の輸送計画。……あれを聞き出すのが目的だったのでしょう?」


リリスは顔を上げる。


否定も肯定もしない。


ただ静かにフィオナを見つめ返す。


「私は、旦那様のお話に合わせて相槌を打っただけにございます」


「ふん。……白々しい」


フィオナは鼻で笑うが、それ以上の追及はしなかった。


馬車が闇の中を走る。


リリスは膝の上で拳を握り、今日得た情報の断片を脳内で整理する。


これでまた一つ、自分の生存価値を積み上げた。


道具として、兵器として、そしてスパイとして。


利用されるのではない。


利用されることを利用して、生き残る。

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