日常
夜半の冷たい雨が降りしきる中、リリスは重い足取りで屋敷の裏口へと辿り着いた。
全身はずぶ濡れになり、軍用コートには黒い土と枯れ草が張り付いている。
彼女は扉のノブに手をかける前に、深く息を吐き出した。
肺の中に残る殺戮の鉄錆びた臭いを排出し、代わりに湿った夜気を吸い込む。
意識のスイッチを切り替える。
冷徹な暗殺者としての自我を沈殿させ、健気で不器用な少女としての仮面を顔に張り付ける。
茨が蠢いていた両手の感覚を消し、震える演技を指先に宿らせる。
準備は整った。
リリスは静かに扉を開け、暖かな光が漏れる屋内へと足を踏み入れた。
「あら、リリス様!」
厨房で夜食の後片付けをしていたマサが、泥まみれの少女を見て駆け寄ってくる。
その表情には驚きと、そして隠しようのない安堵が浮かんでいた。
リリスは申し訳なさそうに肩を縮め、床に落ちる雫を見つめた。
「ごめんなさい、マサさん。……また、床を汚してしまいました」
「そんなことは構いませんよ。でも、こんな夜更けまで……一体どこへ?」
マサがタオルを差し出す。
リリスはそれを受け取り、濡れた銀髪を拭いながら、練習通りの嘘を口にする。
「中庭で、少し訓練をしていました。……雨の中なら、誰にも邪魔されずに集中できると思いましたので」
彼女は顔を上げ、恥ずかしそうに微笑む。
「私、不器用ですから。皆さんが休んでいる間に、少しでも強くなっておかないと、ゼノン様のお役に立てません」
その笑顔には一点の曇りもない。
直前まで数十の命を摘み取り、その血肉を養分として吸収してきた怪物の影など、どこにも見当たらなかった。
マサは目尻を下げ、深いため息をつく。
「本当に、貴女という人は……。風邪を引いてしまいますよ。すぐにお風呂に入ってください。温かいスープを用意しておきますから」
「はい。……ありがとうございます」
湯浴みを終え、清潔なリネンの部屋着に身を包んだリリスは、廊下でゼノンと鉢合わせた。
彼は眠れないのか、書物を手に歩いていたが、湯上がりのリリスを見て足を止めた。
「……リリスか。起きているとは思わなかった」
ゼノンの視線が、リリスの少し濡れた髪と、火照った頬に向けられる。
リリスは首元の首輪に手を添え、小さく会釈する。
「申し訳ありません、ゼノン様。少し興奮して眠れなかったので、外の空気を吸っておりました」
「外? 雨が降っているだろう」
「はい。雨音を聞きながら槍を振っていました。……冷たい雨は、頭を冷やすのに丁度良いのです」
ゼノンは眉を寄せ、リリスに歩み寄る。
大きな手が彼女の額に触れる。
「熱はないようだが、無茶はするなと言ったはずだ。……お前はもう、焦る必要はない」
その掌の温かさに、リリスの胸の奥で鋭い痛みが走る。
この手は、人を守るための手だ。
自分がさっきまで血に染めてきた手とは違う。
リリスは目を伏せ、その温もりを拒絶することなく、しかし受け入れる資格もない自分を自嘲しながら答える。
「ご心配をおかけして、すみません。……でも、私は道具ですから。メンテナンスを怠るわけにはいきません」
彼女は顔を上げ、無邪気に笑ってみせた。
「それに、マサさんのスープが待っています。働いた後の食事は、何よりも美味しいですから」
厨房の片隅、小さな木製のテーブルで、リリスは湯気を立てる野菜スープを啜った。
濃厚なクリームと野菜の甘みが口いっぱいに広がり、冷え切った内臓をゆっくりと温めていく。
マサが満足そうにその様子を見守っている。
「美味しいです、マサさん」
「よかった。おかわりもありますからね」
リリスはスプーンを動かしながら、心の中で反芻する。
これが、私の日常。
昼は従順で健気な召使い。
夜は冷酷な帝国の掃除屋。
このスープの温かさと、先ほどの鮮血の温度。
その両方が、今の自分を構成する現実である。
罪悪感はない。
あるのは、役割を全うできているという奇妙な安堵感だけだった。
彼女は最後の一滴までスープを飲み干し、深く息をついた。
「ごちそうさまでした」
その言葉は、空っぽの胃袋だけでなく、空虚な心にも蓋をするための儀式のようだった。
同時刻、屋敷の二階。
ゼノンは自室のベッドに腰を下ろし、窓ガラスを叩く雨音を聞いていた。
先ほど廊下ですれ違ったリリスの姿が、脳裏から離れない。
彼女は笑っていた。
「道具だから」と言って。
その瞳は澄んでいて、あまりにも綺麗すぎた。
ゼノンは自身の胸に手を当てる。
ざわつく。
言い知れぬ不安が、心臓の鼓動を早める。
ふと、数時間前の感覚が蘇る。
深夜、喉の渇きで目を覚ました時、屋敷の中にリリスの気配が感じられなかった瞬間があった。
部屋を確認したわけではない。
ただ、戦士としての直感が、この広い屋敷のどこにも彼女の存在がないと告げていた。
中庭で訓練していたと言うが、本当にそれだけだったのか。
あの無邪気な笑顔の裏に、もっと深く、暗い何かを隠しているのではないか。
「……考えすぎか」
ゼノンは首を振り、自分を戒める。
彼女は傷ついている。
エヴァとの別れを経て、必死に自分の居場所を確立しようとしているだけだ。
それを疑うなど、彼女の献身に対する裏切りでしかない。
だが、拭いきれない違和感が残る。
時折見せる、あの硝子玉のような瞳。
感情が抜け落ちた、深淵を覗き込むような冷たさ。
あれは、ただの「努力」や「忍耐」で説明できるものなのか。
ゼノンは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
雨はまだ降り続いている。
その闇の向こう側で、リリスが一人で何かと戦っているような気がして、ゼノンは拳を握りしめた。
守ると誓った。
だが、本当に守れているのだろうか。
彼女が自ら望んで被った「首輪」の重さを、自分はまだ理解していないのかもしれない。
「リリス……」
呟きは雨音に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。




