任務完了
冷たい雨が石畳を叩き、帝都の排気と汚水が混ざった臭いが鼻をつく。
下層区画の最奥、廃棄された織物工場の鉄扉の前で、リリスは足を止めた。
漆黒の軍用コートが雨水を弾き、フードの下で銀色の瞳だけが夜闇に光る。
心臓の鼓動は一定のリズムを刻み、恐怖も高揚もない。
ただ、脳裏に焼き付けられた地図情報と標的の配置図だけが明滅している。
彼女は濡れた壁に手を添え、錆びついた蝶番の隙間から内部を窺う。
二名の男が焚き火を囲み、安い酒を回し飲みしている。
武装しているが、警戒心は薄い。
リリスは呼吸を止める。
筋肉が収縮し、瞬発力が足裏に溜まる。
音もなく鉄扉の隙間をすり抜け、影と同化する。
「おい、今の音……」
男の一人が顔を上げかけた瞬間、視界が反転した。
リリスのブーツが男の顎を蹴り抜き、脳を揺らして意識を断つ。
もう一人が剣に手を伸ばすより早く、リリスの右手から深紅の棘が射出された。
「……っ」
声帯を貫かれ、空気が漏れる音だけが響く。
茨は肉を食い込み、頸椎を粉砕した。
リリスは二つの体が倒れる前に支え、音もなく床に横たえる。
血が広がる前に、茨が脈動し、生命力を啜り尽くす。
死体は急速に干からび、灰色の粉となって崩れ落ちた。
リリスは表情を変えず、さらに奥へと進む。
工場の広間には、数十名の男たちが雑魚寝し、あるいは木箱を机にして地図を広げていた。
「暁の牙」の主力部隊。
帝国への反逆を企てる者たち。
リリスにとっては、ただの「処理すべき有機物」に過ぎない。
彼女は広間の中央にある梁の上から、無機質な視線で見下ろす。
首輪が冷たく首を締め付け、それが起動合図となる。
「殲滅を開始します」
声に出さず、唇だけを動かす。
リリスは落下する。
重力に従い、無防備な群れの中へと飛び込む。
着地と同時に、彼女の両腕から無数の茨が爆発的に展開された。
詠唱はない。
魔力の光もない。
ただ物理的な死の嵐が吹き荒れる。
「な、なんだ!?」
「敵襲――ぎゃああっ!」
悲鳴が上がる間もなく、茨は正確に心臓、喉、眼球を貫く。
剣を抜こうとした男の腕が宙を舞い、魔法を唱えようとした術者の口が茨で塞がれる。
フィオナが警戒した通り、魔力感知に頼る者たちにとって、リリスの攻撃は透明な死神そのものであった。
防御障壁は反応せず、紙切れのように肉体が切り裂かれる。
リリスは舞うように戦場を駆ける。
返り血を浴びることなく、茨を操り、効率的に命を刈り取る。
一人が倒れるたびに、茨はその血肉を養分として吸い上げ、さらに太く、鋭く成長していく。
工場内は瞬く間に、真紅のバラと棘の地獄へと変貌した。
最後の生存者であるリーダー格の男が、血の海を這いずりながら出口へ向かう。
「ば、化け物……」
男が振り返ると、そこには美しい少女が立っていた。
無垢な顔立ち。
銀色の髪。
そして、その背後で蠢く、おぞましい肉食植物の群れ。
リリスは男の前に歩み寄り、冷ややかに見下ろす。
「……帝国に仇なす者は、根絶します」
茨が男の足首を掴み、吊り上げる。
「ひぃっ、やめ、助け――」
命乞いは、棘が全身を包み込む音にかき消された。
リリスは目を閉じ、吸収のプロセスを完了させる。
数分後。
工場内には、静寂だけが残った。
死体はない。
血痕もない。
武器や衣類すら、茨が分泌する酸によって溶かされ、痕跡は消滅していた。
ただ、空気中に甘いバラの香りが微かに漂うのみ。
リリスは自身の衣服を確認する。
汚れ一つない。
彼女はフードを被り直し、誰もいなくなった廃墟を見渡す。
完璧な仕事。
誰にも知られず、誰の記憶にも残らない死。
それが、今の自分の価値。
「任務完了。……帰還します」
彼女は闇に溶け込むように外へ出た。
雨はまだ降り続いている。
その冷たさが、火照った身体と、麻痺した心を静かに冷やしていく。
リリスはゼノンの待つ屋敷の方角を一瞬だけ見つめ、すぐに視線を逸らして、帰路についた。




