合格よ704番
またの日。
灰色の雲が垂れ込め、中庭の芝生は泥濘と化している。
冷たい雨粒が容赦なく降り注ぎ、石畳を叩いて飛沫を上げる。
リリスはその中心で、泥にまみれながら木槍を振るっていた。
息は白く、荒い。
足元のぬかるみが自由を奪うが、彼女はそれを無視して踏み込む。
肉体が悲鳴を上げている。
昨日まで癒えかけていた筋肉繊維が断裂し、古傷が疼く。
だが、その痛みこそが、今の彼女には必要であった。
心が空っぽになり、風が吹き抜けるような虚無感を、鮮烈な肉体の苦痛で満たす。
エヴァが去った後の空白は、あまりにも広大で冷たい。
「……はぁっ、はぁっ」
リリスは泥の中に倒れ込み、すぐに立ち上がる。
首輪が雨で濡れ、冷たく首筋に食い込む。
私は兵器だ。
私は道具だ。
感情など不要だ。
彼女は自分自身に呪文をかけるように、木槍を突き出す。
その切っ先が雨粒を裂き、空虚な空間を貫く。
誰もいない庭で、ただひたすらに自分を痛めつける行為だけが続いた。
「相変わらず、汚らわしい獣のような動きね」
冷ややかな声が雨音を裂く。
リリスは動きを止め、泥を跳ね上げて振り返る。
回廊の屋根の下、優雅な軍服を濡らすことなく佇む影があった。
フィオナである。
琥珀色の瞳は、蔑みと冷徹な観察眼でリリスを見下ろしている。
その手には細身の杖が握られ、先端の魔石が微かに明滅している。
「……フィオナ様」
リリスは槍を下げ、泥だらけの体で最敬礼をとる。
雨水が顔を伝い、睫毛から雫となって落ちる。
「魔族風情が、帝国の紋章を背負うなど片腹痛い。……ゼノンの慈悲に甘えて、ペット気取りかしら?」
フィオナはゆっくりと中庭へ足を踏み出す。
見えない膜が雨を弾き、彼女の周囲だけ乾燥した空間が保たれている。
「特務兵としての登録は済んだようだけれど、性能検査がまだでしょう。……私が直々に、その価値を測ってあげる」
拒否権などない。
フィオナが杖を振ると、風が唸りを上げた。
「跪きなさい――【風圧の戒め】」
詠唱と共に、見えない巨人の掌で押し潰されるような圧力がリリスを襲う。
「ぐぅっ……!」
リリスは膝をつく。
泥水が跳ね、全身に重力が何倍にもなってのしかかる。
骨がきしむ音がする。
これは訓練ではない。
明確な悪意を持った、一方的な暴力である。
フィオナは無表情で圧力を強める。
「魔力耐性はゴミ以下ね。……これでは、敵の魔法を一発受けただけでミンチになるわ」
彼女はさらに杖を振るう。
風の刃がリリスの頬を掠め、鮮血が飛ぶ。
「反撃なさい。……殺す気で来なければ、ここで手足の一本も失うことになるわよ」
リリスは歯を食いしばり、泥水を啜る。
屈辱。
痛み。
だが、それ以上に生存本能が叫ぶ。
ここで無様に死ねば、エヴァを遠ざけた意味がない。
ゼノンに迷惑がかかる。
リリスは這いつくばった姿勢から、充血した目でフィオナを睨みつける。
風圧の檻の中で、筋肉を収縮させる。
魔力ではない。
自身の肉体そのものを変異させる、異形の力。
「……殺す気で、行きます」
リリスは地面を蹴り、低い姿勢で突進する。
風圧が体を押し戻そうとするが、彼女はそれをねじ伏せて進む。
フィオナは鼻で笑う。
「遅い」
杖を突き出し、至近距離から爆風を放とうとする。
その瞬間。
リリスの右手首の肉が裂け、真紅の影が迸った。
詠唱などない。
魔力の予備動作もない。
ただ純粋な殺意と共に射出された【紅茨】が、風の防御をすり抜ける。
「なっ――!?」
フィオナの表情が凍りつく。
防御魔法が反応しない。
魔力を感知して自動発動するはずの障壁が、リリスの攻撃を「魔法」として認識していない。
棘のついた茨が、フィオナの喉元数センチまで迫る。
死の感触。
フィオナは反射的に全力で魔力を放出し、爆風でリリスごと吹き飛ばした。
リリスは中庭の反対側まで転がり、泥水の中に叩きつけられる。
全身を強打し、咳き込む。
口から血と泥が混じった塊を吐き出す。
フィオナは杖を構えたまま、荒い息をついている。
その美しい首筋には、茨の棘が掠めた細い赤い線が刻まれていた。
あと一瞬遅ければ、喉を貫かれていた。
「……貴様」
フィオナは戦慄の目でリリスを見る。
「今のは何? 魔法の波動が一切なかった。……詠唱破棄? いや、術式構成の痕跡すら……」
彼女は首元の血を指で拭い、その赤色を見つめる。
植物魔法という登録情報は知っていたが、これは魔法の理屈を超えている。
魔導師殺しの奇襲。
感知不能の刃。
フィオナは杖を下ろし、侮蔑の色を潜め、冷徹な軍人としての評価を口にする。
「……なるほど。汚らわしい魔族の力ということか」
彼女は踵を返す。
「合格よ。……魔力感知に頼る術者にとって、お前は悪夢のような暗殺者になり得る」
フィオナは背中で語る。
「精々、使い潰されなさい。704番」
彼女が去った後、リリスは泥の中で空を見上げる。
雨はまだ止まない。
だが、その冷たさは、少しだけ心地よく感じられた。
少なくとも、自分には「殺す道具」としての価値があることが証明されたのだから。
これで、まだ生きられる。




