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自由

翌日。


ゼノン邸の鉄門が開き、帝国の紋章が入った馬車が砂利を踏んで停止する。


降り立ったリアムは、無機質な灰色の封筒を手に、玄関ホールへと歩を進める。


リリスは階段の踊り場でその姿を認め、手すりを握る指に力を込めた。


呼吸を一度止め、肺の奥底まで冷たい空気を満たしてから、彼女はゆっくりと階段を下り始めた。


足音はリズムを保ち、乱れはない。


首元の銀色の首輪が、朝の光を受けて鋭く輝く。


鏡の前で何百回も練習した、冷ややかで自信に満ちた「兵士」の仮面が、今の彼女の顔には張り付いていた。


応接室には、すでにエヴァが待機していた。


彼女は早朝の呼び出しに不安な表情を浮かべ、指を組み合わせて祈るような仕草をしている。


リアムが入室し、挨拶もそこそこに封筒を卓上に置く。


乾いた音が室内に響く。


「単刀直入に言う。エヴァ・ハインリヒ、貴君に対し、帝国軍情報部は即時退去を命じる」


リアムの声には一切の感情がない。


「リリス特務兵は、今後高度な軍事機密に関わる任務に従事する。民間人であり、他国の市民権を持つ貴君との接触は、機密漏洩のリスクとなると判断された」


エヴァが目を見開き、立ち上がる。


「そんな……! 私は、リリスの保護者です! 彼女を置いていけません!」


「法的には違う。彼女は帝国の所有物であり、貴君は部外者だ」


リアムは冷たく切り捨てる。


「馬車を用意した。一時間以内に荷物をまとめ、ドラコニア共和国へ発て。これは決定事項だ」


「……その通りです、エヴァさん」


扉が開き、リリスが静かに入室する。


その姿は、昨日までの庇護を求める少女のものではなかった。


背筋は剣のように伸び、表情には微塵の揺らぎもない。


真新しい軍用の制服を隙なく着こなし、その立ち振る舞いは訓練された兵士そのものである。


エヴァが駆け寄ろうとする。


「リリス! 貴女も言って! 私たちは一緒じゃないと……」


リリスは片手を上げ、エヴァの接近を制止した。


その拒絶の動作に、エヴァが足を止める。


「いいえ。リアム様のおっしゃる通りです」


リリスは口角を上げ、完璧な微笑みを作る。


「私はもう、貴女に守られるだけの子供ではありません。帝国の特務兵、管理番号704。それが今の私です」


リリスは首輪に手を添え、誇らしげに見せつける。


「見てください。この首輪が、私の価値を証明しています。ここでは毎日、温かい食事が食べられ、清潔なベッドで眠れ、そして私の力を必要としてくれる任務があります」


彼女はエヴァの目を直視し、淀みなく言葉を紡ぐ。


「煤の底で泥水を啜っていた頃とは違うのです。私はここで、自分の居場所を見つけました。……正直に言えば、エヴァさんの過保護な優しさは、今の私には少し窮屈なのです」


エヴァの顔色が蒼白になる。


「窮屈……? リリス、貴女、何を……」


「貴女には貴女の人生があるはずです。故郷に帰り、ご両親を安心させてあげてください。私のことなど忘れて、幸せになってください」


リリスは一歩下がり、距離を取る。


「私は一人でうまくやれます。……だから、もう行ってください」


エヴァは唇を震わせ、リリスを見つめる。


その瞳には困惑と、そして拒絶されたことへの悲しみが浮かぶ。


だが、リリスの表情は鉄壁であり、そこに入り込む隙はない。


リアムが時計を見る。


「時間だ。行こう」


促され、エヴァはよろめくように出口へと向かう。


扉の前で一度だけ振り返る。


「……本当に、いいの? リリス」


リリスは深く頷く。


そして、この世で最も愛しい人へ向けて、最後の演技を行う。


最大限の感謝と、永遠の別れを込めて。


「はい。……今までありがとうございました」


リリスは首を傾げ、無邪気さを装って微笑んだ。


「さようなら、お姉さま。……お元気で」


エヴァの姿が消え、玄関の扉が閉まる重い音が響く。


砂利を踏む馬車の音が遠ざかっていく。


リアムも無言で退室し、リリスは応接室に一人残された。


静寂。


窓の外を見る。


黒塗りの馬車が、朝霧の中へ消えていくのが見える。


車輪の音が聞こえなくなるまで、リリスは直立不動で見送り続けた。


完全に気配が消えた瞬間。


リリスの膝から力が抜けた。


ドサリ、と絨毯の上に崩れ落ちる。


張り詰めていた糸が切れ、肺が空気を求めて喘ぐ。


「あ……ぁ……」


喉から、ひび割れた声が漏れる。


涙は出ない。


心臓が凍り付き、痛みさえ麻痺している。


彼女は自分の腕を抱きしめ、床にうずくまった。


これでいい。


これで彼女は自由だ。


私は守ったのだ。


自分自身を殺して、彼女の未来を守ったのだ。


リリスは床の冷たさを頬に感じながら、空っぽになった心で、ただ「任務完了」という事実だけを噛み締めていた。

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