エヴァに自由を
リリスは乱れた呼吸を整え、ゼノンの胸からゆっくりと体を離した。
目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が乾き始めているが、その瞳には先ほどまでの混乱は消え、冷たいほどに透き通った決意の光が宿っていた。
彼女は床に両手をつき、改めて深く頭を下げる。
「……ありがとうございます、ゼノン様。私の身勝手な願いを聞いてくださり、感謝の言葉もありません」
震えを殺した声。
それはもう、泣きじゃくる少女の声ではなく、運命を受け入れた兵士の響きであった。
ゼノンは膝をついたまま、彼女の肩に置いていた手をゆっくりと離す。
掌に残る彼女の体温が、指先から冷気へと変わっていくのを感じる。
彼は立ち上がり、机へと戻る。
背を向けたその姿には、拒絶ではなく、共犯者としての重い沈黙が漂っていた。
「分かった。……すぐに手配しよう」
ゼノンは羽根ペンをインク壺に浸し、新しい羊皮紙を広げた。
紙の上を走るペンの音が、乾いた音を立てて静寂を刻む。
「名目は軍事機密保持規定・第4条の適用だ。特務兵であるお前との接触が、民間人である彼女にとって危険であり、かつ機密漏洩のリスクがあると判断する」
ゼノンは淡々と、しかし噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「これにより、エヴァ・ハインリヒに対し、24時間以内の帝都退去およびドラコニア共和国への即時帰還を命じる。……再入国は無期限で禁止だ」
あまりにも事務的で、冷酷な命令書。
だが、その文字の一画一画に、ゼノンの苦渋とリリスへの哀れみが滲んでいる。
リリスはその背中を見つめ、自分の爪が掌を突き破る痛みで涙を堪える。
これでいい。
これで彼女は自由になる。
悪役は自分でいい。
冷たい帝国軍と、それに従う哀れな道具。
そう思われれば、彼女は後ろ髪を引かれることなく、光の世界へ帰れるのだから。
ゼノンは書き上げた書類に署名し、赤い封蝋を垂らして家紋の印章を押した。
重厚な音が、決定的な別れを告げる鐘のように響く。
彼は書類を封筒に入れ、リリスに手渡すことなく、机の端に置いた。
「明日の朝、リアムを通じて正式に通達させる。……お前は、同席しなくていい」
リリスは首を横に振る。
銀色の髪が揺れ、首輪が微かな音を立てる。
「いいえ。……私が立ち会います」
彼女は立ち上がり、背筋を伸ばす。
「私が、彼女に別れを告げます。冷たく、事務的に。……彼女が私を嫌いになれるように」
ゼノンはリリスを見る。
その表情には、張り付けたような無機質な微笑みが戻っていた。
だが、その瞳の奥底で硝子がひび割れるような音が聞こえる気がして、ゼノンは視線を逸らした。
「……分かった。好きにしろ」
「はい。……失礼いたします」
リリスは完璧な礼をし、踵を返す。
扉へ向かうその足取りに迷いはなかったが、床を踏む音だけが、やけに重く響いていた。
廊下に出たリリスは、扉が閉まると同時に壁に背を預けた。
天井を見上げ、大きく息を吐く。
肺の中の空気が全て抜け、代わりに鉛のような重圧が満ちる。
彼女は自分の部屋へと戻り、洗面台の鏡の前に立った。
冷たい水を掬い、顔に叩きつける。
腫れた瞼を冷やし、赤みを消す。
鏡に映る自分を見つめる。
そこには、魔族の血を引き、奴隷の首輪を嵌められた、ただの道具が映っていた。
「……泣くな」
リリスは鏡の中の自分に命じる。
「泣く資格なんてない。お前は兵器だ。感情なんて必要ない」
彼女は水滴を拭い、口角を持ち上げる練習をする。
自然な笑顔ではない。
相手を突き放すための、冷ややかで虚無的な微笑み。
明日の朝、エヴァに向けるべき最後の表情。
「さようなら、お姉さま」
リリスは小さな声で呟く。
その言葉は誰にも届かず、夜の闇に吸い込まれて消えた。
窓の外では、月が雲に隠れ、世界から色が失われていくようだった。




