エヴァを、屋敷から追い出して
秋の風が冷たさを増し、庭木の葉が枯れ色に染まり始めた午後。
リリスは屋敷の回廊の柱の陰に身を隠し、中庭に立つエヴァの背中を見つめていた。
エヴァは洗濯物を干す手を止め、東の空を仰いでいる。
その視線の先にあるのは、帝国の国境を越えた遥か彼方、ドラコニア共和国の方角である。
彼女の亜麻色の髪が風に揺れ、その横顔には深い憂愁の影が落ちている。
ここ数日、エヴァが空を見上げて動きを止める時間は明らかに増えていた。
リリスは胸元を握りしめる。
あの瞳は、ここではない場所を見ている。
家族、友人、あるいは愛する誰かが待つ、平和で温かな故郷を。
リリスの脳裏に、かつてエヴァが語った言葉が蘇る。
3ヶ月経ったら帰るつもりなの。
父さんや母さんが心配しているから
その期限は、もう過ぎようとしている。
彼女をここに縛り付けているのは、他ならぬ自分だ。
リリスは唇を噛み、血の味が広がるまで力を込めた。
私がいるから、彼女は帰れない。
私が「幸福な奴隷」を演じるだけでは、彼女の優しさを断ち切ることはできないのだ。
リリスは踵を返し、廊下を走った。
これ以上、彼女の人生を奪うわけにはいかない。
たとえ恨まれようとも、彼女を光の当たる場所へ帰さなければならない。
夜の帳が下り、執務室の明かりだけが灯る刻限。
リリスはゼノンの部屋の扉を叩いた。
「入れ」
低い声に応じ、彼女は入室すると同時に鍵を掛け、その場に膝をついて頭を垂れた。
ゼノンは書類から顔を上げ、リリスの切迫した様子にペンを置いた。
「どうした、リリス。夜遅くに」
リリスは顔を上げず、震える声で告げた。
「ゼノン様、お願いがございます。……一生のお願いです」
彼女は床に額を擦り付けるように深く平伏する。
「エヴァ・ハインリヒを……エヴァさんを、この屋敷から追い出してください」
ゼノンの目が驚愕に見開かれる。
「何を言っている? 彼女はお前の恩人であり、唯一の家族だろう」
「はい。だからこそです」
リリスは顔を上げ、潤んだ瞳でゼノンを直視した。
「公務という名目で構いません。ビザの期限切れでも、軍事機密保持のためでも、何でもいいのです。彼女を強制的に、ドラコニア共和国へ送還してください。……もう二度と、私に関われないように」
ゼノンは椅子から立ち上がり、リリスの前に歩み寄った。
「理由を言え。納得できる理由でなければ、聞くことはできん」
リリスは息を吸い込み、早口にまくし立てた。
「彼女は……帰りたがっているのです。ずっと前から」
リリスの目から涙が溢れ、頬を伝う。
「3ヶ月前、彼女は言っていました。故郷に帰りたいと。そこには大切なご両親がいて、親しい友人がいて……もしかしたら恋人だっているかもしれません。彼女には、輝かしい人生があるのです」
リリスは自分の首輪を掴み、強く引いた。
「でも、私がいるせいで、彼女は帰れません。こんな……いつ死ぬかも分からない奴隷兵の私が足枷になって、彼女の時間を奪い続けているのです」
彼女は懇願する。
「彼女は優しすぎます。自分からは決して私を見捨てないでしょう。だから、ゼノン様が断ち切ってください。冷酷な命令で、彼女を自由にしてあげてください」
リリスの声は悲痛な叫びへと変わる。
「お願いします! 彼女を……私の泥沼にこれ以上引きずり込まないで!」
ゼノンは言葉を失い、足元の少女を見下ろした。
彼女の献身は、あまりにも純粋で、そしてあまりにも自己否定的だった。
自分の孤独や寂しさをすべて殺し、ただ愛する者の幸福だけを願うその姿に、ゼノンは胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
彼は膝を折り、リリスと視線の高さを合わせた。
不器用な手が、彼女の濡れた頬に触れる。
「……リリス。お前の気持ちは分かった」
ゼノンは静かに、諭すように語りかける。
「だが、それはお前自身の幸せを犠牲にすることだ。エヴァがいなくなれば、お前は一人になる」
彼はリリスの瞳を覗き込み、無意識のうちに、人間としての希望を問うた。
「エヴァを帰した後……お前自身は、どうなりたいのだ? 将来、この戦いが終わったら、お前は何を望む?」
ゼノンにとって、それは未来への約束を含んだ問いだった。
いつか自由になり、普通の少女として生きる夢を聞きたかった。
だが、その言葉はリリスにとって、最も残酷な現実を突きつける刃となった。




