幸せな奴隷
夜半の静寂。
枕元でエヴァが寝言を言った言葉が、リリスの鼓膜に張り付いている。
「お母さん…お父さん…」
エヴァの声は震えていた。
リリスは手で首輪に触れ、金属の冷たさを指先でなぞる。
脳裏に浮かぶのは、かつてギルドでエヴァがドラコニア共和国へ帰りたい話。
「3ヶ月後、故郷のドラコニア共和国へ帰って、家族や友達に会いたい」
焚き火の明かりに照らされたエヴァの横顔は、郷愁と諦めが入り混じった色をしていた。
(どうして、私はそれを忘れてしまったのか…)
彼女は帰りたいのだ。
生まれ育った土地へ。
愛する人々の元へ。
だが、その足枷となっているのは、他ならぬリリス自身である。
リリスは自分の首にある銀色の輪を指先でなぞる。
この首輪がある限り、自分はここを動けない。
そしてエヴァは、この不憫な「妹」を一人残して旅立つことを、自らの良心が許さないでいる。
リリスは拳を握りしめ、爪を掌に食い込ませる。
これ以上、彼女の人生を奪ってはならない。
彼女を縛る鎖になってはならない。
リリスは息を吐き、決意を固める。
演じるのだ。
この場所こそが楽園であり、自分は幸福な奴隷であると。
彼女が安心して背中を向けられるよう、完璧な嘘をつき通すのだ。
あの日からか、リリスは演じた
鏡のない場所で、完璧な笑顔を作る練習をする。
私は幸せだ。
ここは素晴らしい場所だ。
そう信じ込ませなければならない。
最も愛する人を、私から切り離すために。
リリスは屋敷の中を小走りで移動し、廊下の拭き掃除に取り掛かる。
雑巾を絞る手には力が入り、木の床が鏡のように磨き上げられていく。
通りかかったエヴァが、その姿を見て足を止める。
「リリス、そんなに頑張らなくてもいいのよ。少しは休んで」
リリスは手を止めず、顔だけ向けて明るく答える。
「とんでもないです、エヴァさん。働かせてもらえるだけで、私は幸せなのです」
彼女は首輪をわざと目立つように触り、誇らしげに胸を張る。
「見てください。この首輪のおかげで、私はもう誰にも追われません。ゼノン様が守ってくださる証です。衣食住が保証されて、仕事もあって……こんなに恵まれた環境は、世界中どこを探してもありません」
リリスは立ち上がり、エヴァの手を取る。
「だから、エヴァさんは心配しないでください。私はここで、最高の居場所を見つけましたから」
エヴァの瞳が揺れる。
彼女はリリスの言葉の裏にある必死さを探ろうとするが、リリスの笑顔はあまりに強固で、隙を見せない。
「……そう。貴女がそう言うなら」
エヴァは安堵と寂しさが混ざった表情で微笑む。
リリスはその反応を見て、心の中で安堵の息をつく。
これでいい。
私が幸せそうであればあるほど、彼女は後ろ髪を引かれることなく、自分の未来へ歩き出せる。
その夜、リリスはゼノンの執務室を訪れた。
重厚な扉をノックし、入室の許可を得て中へ入る。
ゼノンは机に向かい、山積みの書類と格闘していたが、リリスを見るとペンを置いた。
「どうした、リリス。何か不自由なことでもあるのか」
「いいえ、滅相もありません」
リリスは机の前まで進み、片膝をついて臣下の礼を取る。
「ゼノン様にお願いがございます。私に、より実戦的な任務をお与えください」
ゼノンが眉を寄せる。
「まだ早い。訓練も基礎段階だ」
リリスは顔を上げ、ゼノンの目を直視する。
「私は道具です。使われなければ意味がありません。汚れ仕事でも、危険な任務でも、何でもやります。ゼノン様の剣となり、盾となることこそが、私の存在意義です」
彼女は言葉に熱を込める。
「私の有用性を証明させてください。そうすれば、帝国も私を生かす価値を認めるはずです。……それが、私を守ってくださったゼノン様への、唯一の恩返しなのです」
ゼノンはリリスの瞳を見つめ返し、そこに宿る悲壮なまでの決意を読み取る。
彼は溜息をつき、引き出しから一枚の地図を取り出した。
「……分かった。だが、無理はするな。お前が壊れれば、エヴァが悲しむ」
「はい。肝に銘じます」
リリスは深く頭を下げ、地図を受け取る。
その指先が微かに震えていることを、彼女は必死に隠した。
深夜。
自分の部屋に戻ったリリスは、扉を閉め、鍵を掛ける。
その瞬間、糸が切れたように膝から崩れ落ちる。
床に座り込み、壁に背を預ける。
笑顔の仮面が剥がれ落ち、そこには疲労と恐怖に歪んだ素顔が現れる。
「……はぁ、はぁ……」
呼吸が荒い。
心臓が痛いほど脈打っている。
エヴァがいなくなる。
唯一の理解者。
唯一の家族。
温もりを失うことの恐怖が、冷たい潮のように押し寄せる。
リリスは膝を抱え、声を殺して泣く。
「行かないで……」
本音が漏れる。
「一人にしないで……」
だが、彼女はその言葉を誰にも聞かせないよう、自分の腕に噛み付いて押し殺す。
痛みで意識を保つ。
これでいい。
これでエヴァは自由になれる。
自分がここで、泥にまみれて戦い続けることで、彼女が笑顔でいられるなら。
それこそが、自分の生きる意味だ。
リリスは涙を拭い、窓の外の月を見上げる。
誰もいない闇の中で、本音が漏れる。
本当は、エヴァと一緒にいたい。
どこか遠くへ逃げて、静かに暮らしたい。
でも、それは許されない夢だ。
リリスは枕に顔を埋め、声を殺して泣く。
エヴァに聞かれないように。
ゼノンに気づかれないように。
自分の弱さを闇に溶かし、涙が乾くのを待つ。
明日になれば、また「幸福な奴隷」の仮面を被らなければならない。
エヴァが旅立つその日まで、私は完璧な人形であり続ける。
それが、私にできる精一杯の愛なのだから。
首輪が冷たく光る。
「……大丈夫。私は強い」
彼女は自分自身に呪文をかける。
「私は、ゼノン様の剣。……ただの、道具なのだから」




