新しい人生
朝霧が晴れぬ中庭に、鋭い金属音が鳴り響く。
ゼノンは木槍を構え、相対するリリスを見据えた。
少女の首には銀色の首輪が嵌められ、簡素な訓練着からは包帯の巻かれた四肢が覗く。
リリスは呼吸を整え、両手の平を前方へ向けた。
足元の土を踏みしめる音が微かに聞こえる。
ゼノンが踏み込む。
音速に迫る刺突が、リリスの左肩を狙う。
リリスは瞬き一つせず、重心を低く落とす。
右足の裏で地面を強く蹴り、紙一重で穂先を回避する。
風切り音が頬を撫で、数本の銀髪が宙に舞う。
彼女は回転の勢いを殺さず、ゼノンの懐へと潜り込む。
右手首から真紅の茨が射出される。
「貫け――【紅茨】」
低い詠唱と共に、棘のついた触手がゼノンの脇腹へと迫る。
ゼノンは柄で茨を弾き、バックステップで距離を取る。
弾かれた茨は蛇のように蠢き、リリスの腕へと収束する。
ゼノンは槍を下ろし、息を吐いた。
「……悪くない。反応速度、魔力の運用、共に水準以上だ」
リリスは直立し、深く頭を下げる。
「ありがとうございます、ゼノン様」
汗が額を伝い、首輪の金属部分に落ちる。
彼女の動きには無駄がない。
痛みを恐れる躊躇も、加減を知らぬ蛮勇もない。
あるのは、生き残るために最適化された冷徹な判断のみ。
ゼノンは眉間に皺を刻む。
この動きは、騎士の教練で培われるものではない。
殺されるか、殺すか。
暴力が日常であった場所で、肉体に刻み込まれた生存本能の結晶だ。
「だが、踏み込みが浅い。自分の体を守ろうとする意識が強すぎる」
ゼノンは指摘する。
リリスは顔を上げ、真剣な眼差しで頷く。
「はい。……痛みには慣れていますが、壊れてしまえば任務に支障が出ますので」
淡々とした言葉。
ゼノンは言葉に詰まる。
彼女にとって、痛みは恐怖ではなく、単なる管理すべきリスクに過ぎない。
その歪な合理性が、彼女が歩んできた地獄を無言で物語る。
ゼノンはタオルを投げ渡す。
「今日はここまでだ。……エヴァが朝食を用意して待っている」
訓練を終えたリリスは、井戸端で体を清め、屋敷の裏口へと向かう。
厨房では、メイド長のマサと数名の使用人が朝食の準備に追われている。
リリスが入室すると、場の空気が一瞬だけ硬直する。
魔族。
首輪付きの奴隷兵。
使用人たちの視線には、隠しきれない警戒と畏怖が混じる。
リリスはその空気を肌で感じ取り、入り口で立ち止まる。
彼女は両手を前で組み、深く腰を折る。
「おはようございます。……お邪魔をして、申し訳ありません」
顔を上げると、彼女は部屋の隅にある野菜の入った籠へと歩み寄る。
「何か、お手伝いできることはありますか? ジャガイモの皮剥きでしたら、得意です」
マサは戸惑いながらも、包丁を置く。
「い、いえ、そのような……お客様に、そのような真似は……」
「いいえ」
リリスは静かに、しかし断固として首を振る。
首輪が微かな金属音を立てる。
「私はお客様ではありません。この屋敷の主、ゼノン様の所有物であり、下僕です。働かざる者、食うべからず。……どうか、私に役目をお与えください」
リリスはマサの返答を待たず、空いているナイフを手に取り、籠のジャガイモを剥き始める。
その手つきは驚くほど速く、皮は薄く、実は無駄なく削がれていく。
冷たい水にさらされた手は赤くなり、古傷が痛々しく浮かび上がる。
だが、リリスの表情は穏やかだ。
ただ黙々と、与えられた「生」に対する対価を払うように作業を続ける。
若いメイドの一人が、おずおずとリリスに近づく。
「あの……その首輪、重くないですか?」
リリスは手を止めず、微笑む。
「重いです。……ですが、これが私の命綱ですから」
彼女は皮の剥けたジャガイモを水桶に入れる。
「それに、皆様がこうして働いている姿を見ていると、私も背筋が伸びる思いです。……この屋敷は、とても暖かいですね」
マサはリリスの横顔を見つめる。
魔族という偏見のフィルターが外れ、そこにいるのは過酷な運命を背負いながらも、懸命に生きようとする一人の少女の姿であった。
マサは溜息をつき、隣に並ぶ。
「……リリス様。皮はもう少し厚く剥いても構いませんよ。スープにするのですから」
「はい。……ありがとうございます、マサさん」
厨房の空気が、少しだけ緩む。




