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魂の契約

扉が開く音が静寂を破り、廊下の光が寝室の闇に細い筋を描く。


エヴァが音もなく部屋に入り、扉を閉ざすと、再び部屋は暖炉の熾火だけが放つ微かな赤に支配される。


ベッドの上で、リリスの睫毛が震える。


ゆっくりと開かれた瞳が、天井の天蓋を見つめ、やがて枕元に立つエヴァの姿を捉える。


リリスが身じろぎすると、清潔なシーツが衣擦れの音を立てる。


エヴァはベッドの縁に腰を下ろし、リリスの手を両手で包み込む。


その指先は氷のように冷たく、わずかに震えている。


リリスはエヴァの顔を覗き込む。


その瞳は赤く腫れ、唇は何かを堪えるように結ばれている。


安堵の涙ではない。


もっと重く、冷たい何かが、エヴァの表情を曇らせている。


「……リリス」


エヴァが口を開く。


声が掠れ、震えを帯びている。


「貴女に、伝えなければならないことがあるの」


リリスは身を起こそうとするが、激痛が走り、シーツを強く握りしめる。


エヴァがそれを制し、優しく背中に枕をあてがう。


「貴女は助かった。異端審問は終わり、もう誰も貴女を傷つけない」


エヴァは言葉を切る。


視線を落とし、リリスの手を握る力を強める。


「だが……それは自由になれたということではない」


リリスは瞬きをし、静かに次の言葉を待つ。


予感していたことだ。


魔族の血を引く自分が、無償で許されるはずがない。


「貴女は、帝国軍の特務戦力として徴用された。……兵器として、帝国の所有物になるのよ」


エヴァの声が沈む。


「拒否すれば、貴女は廃棄処分になると言われた。生きるためには、これを受け入れるしかなかった」


「……兵器、ですか」


リリスの唇から漏れた言葉は、意外なほど冷静であった。


「構いません。私は、ただの道具ですから」


彼女は自嘲気味に笑う。


「煤の底で死ぬより、誰かの役に立って生きる方が、ずっといいです。それがエヴァさんを守るためなら、私は何にでもなります」


エヴァが首を横に振る。


涙が頬を伝い、リリスの手に落ちる。


「そんなことを言わないで……。貴女は道具なんかじゃない」


エヴァはリリスを抱き寄せる。


「ごめんなさい。私に力がなくて、貴女をまた戦場へ送ることしかできなくて……」


リリスはエヴァの背中に手を回す。


その温もりが、冷え切った心に染み渡る。


「謝らないでください。私は生きています。エヴァさんと一緒にいられます。それだけで、十分すぎます」


エヴァが体を離し、リリスの目を真っ直ぐに見つめる。


その瞳には、決死の覚悟が宿っている。


「もう一つ、大事なことがある」


彼女は息を深く吸い込む。


「この契約には、監督責任者が定められている。……ゼノン様なのよ」


リリスの目が大きく見開かれる。


心臓が早鐘を打つ。


嫌な予感が、背筋を這い上がる。


「もし、貴女が逃亡したり、命令に背いたりして裏切れば……」


エヴァの声が詰まる。


「ゼノン様も、連帯責任で処刑される。……貴女の罪で、ゼノン様の命が奪われるのよ」


時が止まる。


暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。


リリスの顔から血の気が引く。


自分の命など、どうなってもいいと思っていた。


汚れた血、忌むべき存在。


だが、ゼノンは違う。


帝国の英雄。


光の象徴。


そして何より、自分ごときに手を差し伸べ、誓いを立ててくれた恩人。


その彼の命が、自分の行動一つに縛り付けられた。


「あ……」


リリスの唇が震える。


言葉にならない呻きが漏れる。


「どうして……そんな……」


彼女は自分の両手を見つめる。


この手は、人を殺した手だ。


そして今、最も守りたい人の首に、見えない刃を突きつけている。


「私が……ゼノン様を、殺すかもしれない……?」


恐怖。


死ぬことよりも深い、根源的な恐怖がリリスを襲う。


自分の存在そのものが、愛する人々にとっての毒であり、呪いであるという事実。


「いけません……そんな契約、ダメです……! 私なんかより、ゼノン様の命の方がずっと……!」


リリスは錯乱し、エヴァに縋りつく。


「取り消してください! 私は死んでもいい! 廃棄でも何でもいい! ゼノン様を巻き込まないで……!」


エヴァはリリスを強く抱きしめる。


暴れる体を、全力で抑え込む。


「ゼノン様が選んだのよ!」


エヴァの叫び声が、リリスのパニックを裂く。


「彼は知っていた。それでも、貴女を生かすために、自分の命を天秤に乗せたの!」


エヴァはリリスの顔を両手で挟み、涙に濡れた瞳を合わせる。


「それが、彼の覚悟よ。貴女を一人前の人間として守り抜くという、騎士の誓い」


リリスの動きが止まる。


呼吸が荒い。


瞳から絶え間なく涙が溢れる。


「……覚悟……」


「そう。だから、貴女も覚悟を決めてください」


エヴァは諭すように、だが厳しく告げる。


「死んで逃げることは許されない。貴女が生きることが、ゼノン様への答え。彼を死なせないために、貴女は誰よりも強く、正しく生きなければならない」


リリスは脱力し、エヴァの胸に崩れ落ちる。


重い。


あまりにも重い、命の首輪。


だが、その重みこそが、自分が単なる道具ではなく、彼らにとって価値ある存在である証なのだ。


リリスは拳を握りしめる。


爪が皮膚を裂くほど強く。


「……分かりました」


嗚咽混じりの声。


だが、そこには確かな意志の響きがある。


「生きます。……どんなに汚い仕事でも、どんなに辛い命令でも、必ずやり遂げます」


彼女は顔を上げ、虚空を見つめる。


そこには、自分を守るために全てを賭けた銀の騎士の姿が浮かんでいる。


「ゼノン様を、絶対に死なせません。私が……私の命に代えても、彼を守ります」


それは、帝国の契約書よりも遥かに重く、強固な、魂の契約であった。

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