生体兵器として
暖炉の火が消えかけ、熾火が微かに赤く明滅している。
静寂に包まれた寝室には、リリスの規則正しい寝息だけが響く。
エヴァは少女の額に掛かる銀髪を指先で整え、その冷たい頬の温度を確かめる。
扉が開き、リアムが音もなく入室した。
彼は眠るリリスを一瞥し、顎をしゃくって廊下を示した。
エヴァは頷き、名残惜しそうにリリスの手を離して立ち上がる。
扉が閉ざされ、二人の足音が廊下の絨毯に吸い込まれる。
ゼノンが腕組みをして壁に背を預けていたが、リアムの合図で無言のまま後に続いた。
通された応接室は、重厚な革張りの椅子とマホガニーの卓が置かれ、冷徹な現実を語るに相応しい空間であった。
リアムは卓上に羊皮紙の束を広げた。
インクの匂いと、帝国の印章が押された紅い封蝋が、禍々しい存在感を放つ。
「単刀直入に言おう」
リアムは椅子に座らず、立ったままエヴァを見下ろした。
その琥珀色の瞳には、聖職者特有の慈悲はなく、ただ政治家の冷厳な光だけが宿る。
「彼女は助かった。だが、それは君が望むような自由ではない」
エヴァは眉を寄せ、羊皮紙に視線を落とす。
そこには「特務戦力徴用命令書」という表題と、複雑な法文が羅列されている。
「リリスは本日付で、神聖ルミナール帝国軍情報部の管轄下に入った。身分は特務兵。聞こえはいいが、実態は違う」
リアムは指先で書類の一節を叩いた。
「帝国の所有物。すなわち、高度な戦闘能力を有する生体兵器として登録されたのだ」
エヴァが息を呑む。
「兵器……そんな……あの子は人間です」
「法的には否だ。魔族の血を引く者は、市民権を持たない」
リアムは淡々と事実を突きつける。
「彼女に与えられる任務は、通常の兵士が行うような栄誉ある防衛戦ではない。暗殺、破壊工作、敵地への潜入、そして同族殺し。公にはできない、帝国の影の部分を担うことになる」
彼は別の書類を取り出した。
それは分厚く、禍々しい魔力を帯びた契約書であった。
「これは高級奴隷契約書だ。一般の奴隷とは異なり、ある程度の自律行動や生活水準は保証される。だが、首輪がついていることに変わりはない」
リアムはエヴァの蒼白な顔を直視する。
「彼女が命令に背けば、即座に処刑される。彼女が逃亡すれば、追跡部隊が差し向けられる。そして何より、彼女の監督責任者はゼノンだ」
壁際で沈黙を守っていたゼノンが、短く頷く。
「リリスが過ちを犯せば、俺の首が飛ぶ。そういう契約だ」
エヴァは卓に手をつき、身体を支えた。
膝が震え、立っていることさえ困難になる。
「そんな……酷すぎます。あの子は、ただ生きたいだけなのに。どうして、また誰かの道具にならなければならないのですか」
涙が床に落ちる。
「煤の底で……あんなに酷い目に遭って……やっと外の世界に出られたのに。また、地獄へ戻れと言うのですか」
リアムは表情を崩さない。
「地獄ではない。戦場だ」
彼は冷酷に告げる。
「異端審問所で、彼女は廃棄処分寸前だった。ヴァレリウスの手で精神を壊され、ただの肉塊になるところだったのだ。それを救うには、彼女に利用価値があることを証明し、帝国の利益になる形で首輪をつけるしかなかった」
リアムは一歩近づき、エヴァの肩に手を置いた。
「選択肢は二つだった。無意味に死ぬか、有益な道具として生きるか。我々は後者を選んだ。それだけだ」
エヴァは顔を上げ、ゼノンを見た。
彼の瞳にあるのは、逃げ場のない苦渋と、それでも守り抜くという鋼の意志であった。
彼女は悟る。
これが、英雄たちがなし得る限界の救済なのだと。
綺麗事だけで救える命などない。
泥を啜り、血を被り、魂の一部を売り渡して初めて、生きる権利が得られる。
エヴァは涙を拭い、震える声で問う。
「……リリスは、これを知っているのですか」
「まだだ。目覚めたら、君から伝えてほしい」
リアムは書類をまとめた。
「残酷な役回りだが、君にしかできない。彼女にとって、君はこの世界に残された唯一の家族だからな」
エヴァは深呼吸をし、腹の底に力を込める。
「……分かりました」
彼女は書類から目を逸らし、扉の方へと向かう。
「私は、あの子のそばにいます。たとえ兵器と呼ばれても、道具と蔑まれても。私だけは、あの子を人間として愛し続けます」
扉が開かれ、エヴァは寝室へと戻っていく。
その背中は小さく頼りないが、先ほどまでのような絶望的な震えは消えていた。
残された応接室で、リアムは溜息をつき、ゼノンに苦笑を向けた。
「強い女性だ。君が見込んだだけのことはある」
ゼノンは答えず、ただ窓の外の闇を見つめ続けた。




