貴女は私の最高の魔導師
石造りの螺旋階段を、ゼノンの金属靴が乱暴に叩く。
腕の中に抱えた少女の体温は低く、マント越しに伝わるその感触は、枯れ木のように脆く頼りない。
地下の澱んだ空気は背後へと遠ざかり、地上から差し込む薄明かりが、出口の扉を白く縁取っている。
鉄扉を蹴り開けると、そこには焦燥に顔を歪めたエヴァが立っていた。
彼女はゼノンの姿を認めると同時に駆け寄り、その腕の中にある血濡れた銀髪を見ると、喉の奥から悲鳴を絞り出した。
リリスの白い肌は無数の穴で穿たれ、囚人服は赤黒く変色し、その無惨な姿は拷問の凄惨さを無言で物語っている。
エヴァは崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、震える両手をリリスの胸元にかざした。
「……光よ、その慈悲をもって、裂けた肉を繋ぎたまえ!」
エヴァの唇が震えながら詠唱を紡ぐ。
彼女の掌から柔らかな金色の光が溢れ出し、リリスの全身を包み込む。
【聖なる癒し(ヒール)】。
光の粒子が傷口に吸い込まれ、抉られた肉が盛り上がり、裂けた皮膚が縫い合わされるように塞がっていく。
出血は止まり、土気色だったリリスの頬に、微かな赤みが戻り始める。
だが、失われた血液までは戻らない。
リリスの呼吸は浅く、意識は深い闇の底に沈んだままである。
エヴァは涙を流しながらも、魔力を送り続けることを止めない。
「ごめんなさい……ごめんなさい、リリス……」
謝罪の言葉が、祈りのように繰り返される。
ゼノンはその様子を黙って見守り、彼女たちの再会が悲劇的な結末にならなかったことに、奥歯を噛み締めて安堵した。
「軍病院へは行かない。あそこはまだ審問局の息がかかっている」
リアムが背後から声をかけ、待機させていた一台の馬車を指し示した。
装飾のない、地味な黒塗りの馬車である。
「君の私邸を使え、ゼノン。あそこなら法的にも私的財産だ。侵入には面倒な手続きがいる」
ゼノンは頷き、リリスを抱えたまま馬車へと乗り込む。
エヴァもそれに続き、リリスの傍らに座り込んだ。
馬車が動き出す。
石畳の振動が車内に伝わるが、今度のそれは異端審問所へ向かう時の絶望的な重さとは違う。
生還への鼓動だ。
車窓の外を流れる帝都の風景は夕闇に沈みかけていたが、そこには確かに明日への時間が流れていた。
ゼノンの私邸は、貴族街の外れにある静かな屋敷であった。
使用人たちの驚愕の視線を制し、ゼノンはリリスを客用寝室へと運び込む。
純白のシーツが敷かれた天蓋付きのベッドに、彼女の体を横たえる。
血に汚れた囚人服はエヴァの手によって脱がされ、清潔な寝間着へと着替えさせられた。
柔らかな布の感触と、羽毛の枕。
それは「煤の底」の固い床とも、地下牢の石床とも異なる、人間としての尊厳が守られた場所の感触である。
部屋の隅にある暖炉には火が入れられ、爆ぜる薪の音が静寂を彩る。
ゼノンは一歩下がり、エヴァに場所を譲った。
「俺は外にいる。何かあれば呼んでくれ」
彼は扉の前で一礼し、静かに退室した。
部屋には、二人の呼吸音だけが残された。
エヴァはベッドの脇に椅子を引き寄せ、リリスの冷たい手を両手で包み込んだ。
「……リリス」
呼びかける声に、リリスの睫毛が微かに震える。
ゆっくりと、硝子玉のような瞳が開かれる。
焦点が定まらない視線が天井を彷徨い、やがてエヴァの顔を捉える。
「……エヴァ、さん……?」
掠れた、風のような声。
エヴァは涙を零し、何度も頷く。
「ええ。ここはもう大丈夫。誰も貴女を傷つけない」
リリスは力のない指先を動かし、エヴァの手の甲を撫でた。
「……私……守れ、ましたか……?」
拷問の苦痛の中でさえ、彼女が気にしていたのは己の命ではなく、誓いの履行であった。
エヴァはリリスの手を額に押し当て、嗚咽と共に答える。
「ええ……また守ってくれた。貴女は私の最高の魔導師よ」
リリスの唇が微かに弧を描く。
それは安堵の微笑みであり、彼女が初めて心から見せた、穏やかな表情であった。
「……よかった」
その一言と共に、リリスは再び深い眠りへと落ちていく。
今度は恐怖による気絶ではなく、安心による休息である。
エヴァはその寝顔を見つめ続け、握りしめた手だけは決して離さなかった。
窓の外には、帝都の夜空に星が瞬き始めていた。




