迎えに来た
重厚な樫の扉が軋み、審問所長の執務室には沈黙が沈殿している。
ゼノンは机に両手をつき、眼前の男を無言で見下ろした。
彼の背後にはリアムが立ち、羊皮紙の束を胸の前で広げている。
所長と呼ばれた小太りの男は、額に脂汗を浮かべ、視線を書類とゼノンの顔の間で往復させている。
彼の手元には、まだインクの乾いていない一枚の命令書が置かれている。
「……し、しかしだね、ゼノン卿。これは異例中の異例だ。異端審問中の被疑者を、軍属として引き抜くなど……法務省が黙ってはいない」
所長の声は震え、保身の色が濃く滲んでいる。
ゼノンは机を指の関節で叩く。
硬質な音が室内に響き、所長の肩が跳ねる。
「黙らせるのが、貴方の仕事だろう。かつて私が、貴方の汚職の証拠を握りつぶし、その地位を守ってやったようにな」
低い声。
脅しではない。
過去の事実を淡々と提示するだけの、冷徹な取引の通告である。
ゼノンは腰の剣に手を置くことなく、ただその全身から放つ威圧感だけで、部屋の空気を支配している。
リアムが一歩前に進み出る。
穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その琥珀色の瞳は氷点下の温度を湛えている。
「所長。これは人命救助ではありません。資源の有効活用です」
彼は書類の一節を指差す。
「サラスの惨劇を引き起こした魔族の脅威に対し、帝国は即応戦力を必要としています。この娘は、毒を以て毒を制すための生きた兵器。彼女をここで無為に壊すことは、帝国の防衛力を削ぐ利敵行為と見なされますが……よろしいので?」
論理の刃。
英雄の威圧と、聖職者の弁舌。
二方向からの圧力に、所長の顔から血の気が引く。
彼は震える手で羽ペンを取り、インク壺に浸した。
「……わ、分かった。署名しよう。だが、責任は全て君たちが負うのだぞ」
「無論だ」
ゼノンは短く答え、所長がサインを書き終えるのと同時に、書類を奪い取るように回収した。
「行くぞ、リアム」
「ああ。急がないと、お姫様が壊れちまう」
二人は踵を返し、風のように部屋を出る。
背後で所長が椅子に崩れ落ちる音が聞こえたが、振り返ることはない。
地下へと続く螺旋階段を、ゼノンの金属靴が打ち鳴らす。
一段飛ばしで駆け下りるその足取りには、焦燥と殺気が絡みついている。
地下特有の湿気と血の臭いが濃くなるにつれ、ゼノンの眉間には深い皺が刻まれる。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
悲鳴すら聞こえない静寂は、拷問が終わった安息ではなく、声帯が機能を停止した結果かもしれないという最悪の想像を喚起させる。
リアムも軽口を叩く余裕を失い、無言でゼノンの背中を追う。
最下層。
「特別尋問室」と記された分厚い鉄扉の前で、二人の衛兵が槍を交差させて立ち塞がる。
「止まれ! ここはヴァレリウス様の……」
「退けッ!」
ゼノンの怒号が炸裂する。
問答無用。
彼は衛兵の槍を片手で払い除け、鉄扉の錠前部分に、白銀の手甲を纏った拳を叩き込む。
ドォォォンッ!
衝撃音が地下道全体を震わせ、強固なはずの鉄扉が内側にひしゃげる。
錠が弾け飛び、扉が悲鳴を上げて開く。
ゼノンは土足で、聖域たる尋問室へと踏み込んだ。
視界に飛び込んできたのは、赤と黒のコントラストであった。
黒い拷問椅子に縛り付けられた、銀髪の少女。
その白い肌は無数の針によって穴だらけにされ、鮮血が幾筋もの川となって囚人服を濡らし、床に水溜まりを作っている。
彼女の頭は力なく垂れ下がり、銀髪が顔を覆っているため、生死は判別できない。
そして、その目の前で、血に濡れた螺旋針を手に恍惚の表情を浮かべるヴァレリウス。
「……素晴らしい。実に素晴らしい反応だ」
ヴァレリウスは侵入者に気づかず、リリスの血を舐めるように見つめている。
ゼノンの視界が真っ赤に染まる。
理性が沸騰し、思考が白熱する。
「貴様ァァァッ!!」
咆哮と共に、ゼノンは間合いを詰める。
一足飛びでヴァレリウスに肉薄し、その胸倉を掴み上げて壁に叩きつける。
ドガッ!
ヴァレリウスの細い体が石壁に打ち付けられ、手にしていた針が床に落ちて金属音を立てる。
「ガハッ……!?」
ヴァレリウスは呼吸を詰まらせ、驚愕に見開いた目でゼノンを見る。
「ゼ、ゼノン……卿? なぜ、ここに……」
ゼノンはヴァレリウスを壁に縫い付けたまま、もう片方の手で握りしめた書類を、彼の顔面に叩きつける。
バシィッ!
羊皮紙が舞い、ヴァレリウスの頬を打つ。
「即時、尋問を中止しろ。この被疑者の身柄は、今この瞬間から俺が預かる」
ゼノンの声は地を這うように低く、絶対的な殺意を孕んでいる。
「こ、公式な手続きもなしに……これは反逆……」
「手続きなら済ませた」
背後から、リアムが静かに歩み寄る。
彼は床に落ちた書類を拾い上げ、所長の署名と印章をヴァレリウスの目の前に突きつける。
「帝国特別法・第七条に基づき、特務戦力としての徴用命令が出た。彼女は現在、軍の管轄下にある重要資産だ。これ以上の毀損は、軍法会議における重罪に該当する」
リアムの声は事務的だが、その眼光はヴァレリウスをゴミのように見下ろしている。
「ヴァレリウス異端審問官。貴方の玩具は没収だ」
ヴァレリウスは書類の署名を確認し、顔を歪める。
怒りではない。
楽しみを奪われた子供のような、純粋な不満と落胆。
「……チッ。あと少しで、中身が見えそうだったのに」
彼は忌々しげに舌打ちをし、抵抗の意志を捨てて両手を挙げる。
ゼノンは乱暴に手を離し、ヴァレリウスを床に突き放す。
そして、すぐさまリリスの元へ駆け寄る。
「リリス!」
彼は手甲を外し、素手で彼女の頬に触れる。
冷たい。
だが、微かな温もりが残っている。
ゼノンは剣を抜き、拘束具の革ベルトを次々と切断する。
リリスの体が重力に従って崩れ落ちるのを、彼は優しく抱き留めた。
血の匂いが鼻をつく。
その軽さと、傷の深さに、ゼノンは奥歯が砕けるほど噛み締めた。
「……すまない。遅くなった」
腕の中で、リリスの瞼が微かに震える。
彼女は薄く目を開け、ぼやけた視界の中に、白銀の騎士の姿を認める。
「……ゼノン、様……?」
掠れた、消え入りそうな声。
ゼノンは強く頷き、彼女を抱き上げる。
「ああ。迎えに来た。もう大丈夫だ」
彼は自分のマントを外し、リリスの血濡れた体を包み込む。
そして、ヴァレリウスを一瞥もしないまま、出口へと歩き出す。
リアムが殿を務め、ヴァレリウスに向けて冷ややかな一瞥を投げてから、扉を閉ざした。




