人間を殺したのは私です
異端審問所までの道は遠い。
またの夜。
焚き火の炎が爆ぜ、赤い火の粉が夜の闇へと舞い上がる。
ゼノンは薪をくべ、その動きに合わせて白銀の手甲が鈍く光った。
対面に座るリリスは、膝を抱え込み、揺らめく炎をじっと凝視している。
その隣では、エヴァが毛布に包まり、規則正しい寝息を立てていた。
森の奥から梟の鳴き声が響き、すぐに静寂が戻る。
薪が炭化して崩れる微かな音だけが、二人の間にある沈黙を埋めていた。
リリスが顔を上げず、唇を動かした。
「……眠れません」
独り言のような、か細い声。
ゼノンは手を止め、リリスを見る。
彼女の銀髪が炎の色を映し、揺れている。
「エヴァさんは、何も悪くありません」
リリスは膝に置いた手を強く握りしめる。
指の関節が白く浮き出る。
「魔族の血を引いているのは私です。人間を殺したのは私です。エヴァさんは、私を助けただけです」
彼女は視線をエヴァの寝顔に向けた。
その瞳が潤み、瞬きのたびに光が揺れる。
「エヴァさんには、帰る場所がありました。ギルドのみんながいて、家族がいて、友達がいて……」
リリスの声が震え始める。
「私と一緒にいたら、エヴァさんは全部失ってしまいます。反逆者と呼ばれて、罪人として扱われて……」
リリスは顔を歪め、涙を堪えるように奥歯を噛み締めた。
「嫌なんです。私のせいで、大好きな人が不幸になるのは」
彼女はゼノンを直視する。
ガラス玉のような瞳に、悲痛な光が宿る。
「ゼノン様。教えてください。どうすればいいんですか」
問いかけは鋭く、ゼノンの胸を刺す。
「私が……全部やったと言えばいいですか。私がエヴァさんを騙して、脅して、無理やり協力させたと言えば……エヴァさんは助かりますか」
自己犠牲。
自分の命や尊厳を切り売りして、他者を生かそうとする思考。
それは「煤の底」で彼女が身につけた、あまりに哀しい生存戦略であった。
ゼノンは息を呑んだ。
喉の奥が熱くなり、言葉がつかえる。
目の前の少女は、自分が救うべき対象でありながら、自分よりも遥かに高潔で、そして脆い。
彼女は自分の命を軽いものだと錯覚している。
誰かのために捨てることが、自分の唯一の価値だと思い込んでいる。
その歪みを作ったのは、自分たち人間だ。
そして、かつて彼女を見捨てた自分自身だ。
ゼノンは握りしめた拳を腿の上に置き、視線を落とす。
胸の奥で、心臓が痛みを訴えるように激しく脈打つ。
「……リリス」
絞り出した声は低く、震えていた。
「それは違う」
ゼノンは顔を上げ、リリスの瞳を見据える。
「嘘をついて罪を被れば、エヴァは救われるかもしれない。だが、それはエヴァが望むことか」
彼はエヴァの寝顔を一瞥する。
安らかで、信頼しきった表情。
「彼女は君を守ると決めた。君を一人にしないと誓った。君が嘘をついて死ねば、生き残った彼女は一生、自分を責め続けるだろう」
ゼノンは焚き火に視線を戻す。
炎が揺れ、彼の苦渋に満ちた表情を照らす。
「君が背負おうとしているのは、罪ではない。愛だ。だが、その重さは一人で抱えるには大きすぎる」
彼は自嘲気味に口元を歪める。
「俺には、正解など分からない。だが、君を犠牲にして得る安寧など、エヴァは望まないし、俺も許さない」
リリスが唇を震わせ、俯く。
涙が頬を伝い、毛布の上に染みを作る。
「……でも……怖いです」
「ああ。俺も怖い」
ゼノンは即答する。
「だが、進むしかない。エヴァも、君も、そして俺も。背負ったものを降ろすことはできない」
彼は薪を一本、火にくべた。
新しい炎が燃え上がり、闇を少しだけ押し広げる。
「悩め。苦しめ。それが、生きているということだ。俺も共に悩む。君たちが理不尽に裁かれることがないよう、俺の全てを懸けて戦う」
リリスは涙を拭い、小さく頷いた。




