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騎士と異端

薪が爆ぜる音が、夜の静寂を鋭く切り裂く。


橙色の炎が揺らめき、周囲の闇を不規則に押し退ける。


ゼノンは手甲を外し、枯れ枝を火にくべる。


その横顔は炎に照らされ、深い陰影を刻んでいる。


対面に座るリリスとエヴァは、毛布を肩から被り、寄り添うようにして火を見つめている。


リリスの手には、湯気の立つ金属製のカップが握られている。


中身は薄いコンソメスープである。


ゼノンが手ずから作ったそれは、戦場での糧食特有の塩辛さがある。


リリスはカップの縁に口をつけ、少しずつ喉を潤す。


温かい液体が食道を通り、冷えた胃袋に落ちる。


エヴァはリリスの背中を一定のリズムで叩いている。


その手つきは母親が幼児を寝かしつける動作に似ている。


馬車の方角を見る。


厚いカーテンが閉ざされ、フィオナの気配はない。


彼女は「魔族と同じ空気を吸うのは御免だ」と言い捨て、車内に引き籠もっている。


ゼノンは視線を炎からリリスへと移す。


銀色の髪が、焚き火の光を受けて赤く染まっている。


そのガラス玉のような瞳は、炎の揺らめきを映し出し、どこか遠くを見ているようだ。


言葉を探す。


喉元まで出かかった言葉は、喉仏のあたりでつかえ、形にならない。


「……味は、どうだ」


ようやく口から出たのは、あまりに平凡な問いかけであった。


リリスが肩をびくりと震わせる。


視線が泳ぎ、エヴァの顔色を窺ってから、ゼノンを見る。


「……おいしい、です」


掠れた声。


緊張と警戒が滲んでいる。


当然だ。


自分はかつて、この少女を見捨てた男なのだから。


ゼノンは自嘲気味に口角を上げ、地面に視線を落とす。


ゼノンは傍らに置いていた兜に手を置く。


指先で冷たい金属の感触を確かめる。


「俺は、卑怯者だ」


唐突な独白。


リリスが瞬きをし、エヴァが眉を寄せる。


ゼノンは顔を上げ、リリスを直視する。


逃げない。


今度は、目を逸らさない。


「あの時。バラ園で、君が俺に花をくれた時。俺は君が置かれている状況に気付いていた」


言葉を紡ぐたび、胸の奥にある古傷が疼く。


「祝賀会の夜。君が俺の足元に縋りつき、助けを求めた時。俺は君を救う力を持っていた」


握りしめた拳が震える。


「だが、俺はしなかった。フィオナの言葉に怯え、リアムの政治論に逃げ、帝国の騎士という体面を守ることを優先した」


ゼノンは深く息を吸い込む。


肺に夜の冷気と共に、自身の罪の重さを吸い込む。


「君の絶望よりも、自分の保身を選んだんだ。だから、俺に君を守る資格などない」


炎が大きく揺れ、ゼノンの顔に濃い影を落とす。


「それでも……俺は君を生かしたいと思った。魔族の将が、敵である俺に君を託した時、俺は自分の正義がどれほど空虚なものだったかを知った」


リリスはカップを握りしめる力を強める。


金属が歪む微かな音がする。


視線がゼノンの青い瞳と交錯する。


そこにあるのは、かつての英雄の傲慢さではない。


ただの罪人の、悔恨に満ちた瞳だ。


リリスの唇が動く。


「……あの夜」


ポツリと、言葉が零れる。


「祝賀会の夜。貴方に見捨てられた時、私は思いました。神様なんていない、英雄なんていないって」


彼女は言葉を切る。


呼吸を整え、過去の痛みを飲み込む。


「でも」


リリスはカップを地面に置き、自分の膝に手を置く。


「今日、貴方は来てくれました。フィオナ様の魔法を止めて、私に手を差し伸べてくれました」


彼女は顔を上げる。


その瞳に、微かな光が宿っている。


「それが罪滅ぼしだとしても、偽善だとしても。貴方は私を、あの刃から守ってくれました。私の手を、握ってくれました」


リリスの声が少し震える。


「それだけは、嘘じゃないですよね」


エヴァが口を開く。


「この子は、地獄を見てきました」


静かで、凛とした声。


「母親を殺され、娼館を焼かれ、汚い場所に売られ、尊厳を奪われ続けました。それでも、この子は心を失いませんでした」


エヴァはリリスの肩を抱き寄せる。


「サラスで、彼女は自分の命を削って私を守りました。人間を憎む理由はいくらでもあったはずなのに、彼女は愛することを選びました」


エヴァの瞳がゼノンを射抜く。


「ゼノン様。貴方が過去に何をしたか、私は問いません。ですが、今度こそ、この子を、一人の人間としてみてください。」


ゼノンは立ち上がる。


腰の剣を抜き、鞘ごと地面に突き立てる。


騎士の最上位の誓いの作法。


だが、向ける相手は王でも神でもない。


一人の、傷ついた少女だ。


「誓う」


低い声が、夜の闇に重く響く。


「俺は、君を一人の立派な人間として、守り抜く」


ゼノンは剣の柄に額を当てる。


「これは贖罪ではない。俺のエゴだ。俺がそうしたいから、そうする」


リリスが息を呑む。


瞳から一筋の涙が零れ落ちる。


彼女は身を乗り出し、震える手でゼノンの突き立てた剣の鞘に触れる。


「……信じます」


小さな声。


だが、確かな受諾の言葉。


エヴァが安堵の息を吐き、微笑む。


歪な関係。


加害者と被害者。


騎士と異端。


だが、焚き火の周りには、確かに共有された温度があった。


東の空が白み始める。


夜明けが近い。


それは、帝都という新たな戦場への旅立ちの合図でもある。


ゼノンは剣を腰に戻し、火の始末をする。


「行こう。道は険しいが、止まるわけにはいかない」


リリスは涙を拭い、立ち上がる。


足取りはまだ覚束ないが、その目には先ほどまでの怯えはない。


エヴァが手を差し出す。


リリスはその手を握り返す。


そして、前を歩くゼノンの背中を見つめる。


かつて遠ざかっていった銀色の背中。


今は、自分たちを導く道標として、そこにある。


三人の影が、朝霧の中に伸びていく。


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