私たちは家族
馬車の車輪が轍を軋ませ、重苦しい振動が密室の空気を揺らす。
窓のカーテンは厚く閉ざされ、外光を拒絶した車内は薄闇に沈んでいる。
向かい合わせの革張り座席には、不可視の境界線が引かれていた。
片側には、手足を新しい包帯で巻かれたリリスと、彼女を庇うように寄り添うエヴァ。
対面には、脚を組み、氷のような琥珀色の瞳で二人を射抜くフィオナが鎮座している。
彼女の視線は、刃物よりも鋭利にリリスの肌を撫で回し、その精神の皮膜を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
フィオナが口を開く。
硝子を爪で引っ掻くような、神経を逆撫でする冷たい声が響く。
「正直に答えなさい。貴女のその汚れた血が、どれほどの人間を誑かしたのですか」
尋問ではない。
それは答えを求めているのではなく、罪悪感を植え付けるための儀式であった。
「あの英雄気取りのゼノンも、貴女のその哀れっぽい演技に騙されたのでしょう。母と同じ手口ですか。体を使い、同情を誘い、男の判断力を奪う。娼婦の血統とは、実に恐ろしいものです」
リリスの肩が跳ねる。
娼婦。
その単語が、封印したはずの「煤の底」の記憶をこじ開ける鍵となる。
「いいえ……私は……」
「否定する権利などありません」
フィオナが遮る。
「貴女が存在すること自体が罪なのです。人間を殺した魔族の種が、人間のふりをして呼吸をしている。その厚顔無恥さに、私は反吐が出る」
リリスの視界が歪む。
フィオナの顔が、かつて自分を嘲笑った客たちの顔と重なる。
マダム・ロザリアの冷笑。
バーンズ子爵の拳。
そして、自分を「汚い」と罵りながら犯した男たちの声。
呼吸が浅くなる。
空気が薄い。
肺が痙攣し、酸素を取り込めなくなる。
ヒュー、ヒューという乾いた音が、リリスの喉の奥から漏れ始める。
指先が冷たくなり、痺れが手足の末端から這い上がってくる。
「あら、また演技ですか」
フィオナが小首を傾げる。
「そうやって弱者を演じれば、誰かが助けてくれると思っている。その根性が腐っていると言っているのです」
言葉の暴力が、物理的な打撃となってリリスの心を殴りつける。
怖い。
助けて。
誰か、助けて。
リリスは膝を抱え込み、ガタガタと震え出した。
過呼吸の発作により、視界が白く明滅する。
「やめてくださいッ!」
エヴァが叫び、隣で震えるリリスの体を強く抱き寄せた。
彼女はフィオナの冷たい視線を正面から睨み返し、リリスの耳を両手で塞ぐ。
「聞こえますか、リリス。私の声だけを聞きなさい」
エヴァはリリスの背中を、一定のリズムでさする。
温かい手。
母親のような、絶対的な庇護の感触。
「吸って……吐いて……。そうです、ゆっくり」
エヴァは自分の鼓動をリリスに伝えるように、胸元に彼女の顔を埋めさせる。
「大丈夫。貴女は汚くなんてない。誰も貴女を傷つけさせない」
フィオナが鼻で笑う。
「滑稽な共依存ね。魔族に魅入られた哀れな治癒師。その盲目さが、いつか貴女自身を焼き殺すでしょう」
エヴァは答えず、ただリリスを抱きしめる腕に力を込めた。
リリスの震えが、徐々に治まっていく。
冷え切っていたリリスの頬に、エヴァの体温が移り、生気を取り戻させる。
リリスはエヴァの服の匂いを吸い込み、現実世界へと帰還した。
そこには、蔑む声も、暴力もない。
ただ、自分を命懸けで守ってくれる人の温もりだけがあった。
リリスは顔を上げ、エヴァを見つめた。
涙で濡れた瞳の中に、揺るぎない意志の光が灯る。
「……エヴァさん」
「はい」
「私……逃げません」
リリスは自分の手を、エヴァの手に重ねた。
傷だらけで、不格好な指。
だが、それは誰かを守るために戦った証だ。
「どんなに酷いことを言われても、どんな場所へ連れて行かれても……貴女がいるなら、私は耐えられます」
エヴァが微笑み、その手を強く握り返す。
「私も。たとえ世界中が敵になっても、私だけは貴女の味方です。私たちは家族なんだから」
二人の手が、固く結ばれる。
それは契約よりも重く、血よりも濃い、魂の盟約であった。
フィオナは興味を失ったように視線を外し、窓の外へと顔を向けた。
「帝都に着けば、その絆ごと裁かれることになる。せいぜい、今のうちに慰め合うことよ」
彼女の言葉は、もう二人の耳には届かない。
馬車は進む。
待ち受ける帝都の闇、異端審問の恐怖、そして魔族と人間の狭間にある断崖へと向かう。




