もう、見捨てない
兵士たちが一斉に踏み込み、エヴァの腕を後ろ手に捻り上げ、リリスの肩を押さえつけて床に組み伏せる。
抵抗の余地はない。
魔力が枯渇し、疲労の極致にあるエヴァには、屈強な兵士の腕を振り解く力など残されていない。
リリスもまた、メルクリウスとの契約で命拾いをしたばかりの体であり、兵士の革手袋が傷ついた肌に食い込む痛みに呻き声を漏らすことしかできない。
薬師の老婆が悲鳴を上げて止めに入ろうとするが、兵士の一人が槍の柄で老婆の腹を突き飛ばす。
老婆は壁に叩きつけられ、苦痛に顔を歪めてうずくまる。
小屋の中は、瞬く間に暴力的な制圧の場へと変貌した。
フィオナは杖を石床に打ち鳴らし、埃を払うように眉を顰める。
彼女の視線は、縄で縛られ床に転がされた二人を、汚物を見るような冷たさで見下ろしている。
「連行しなさい。帝都の異端審問所にて、その汚れた魂の全てを吐かせます」
彼女の宣告は、死刑判決と同義であった。
異端審問所に連行されれば、生きて戻る者はいない。
エヴァは必死に顔を上げ、フィオナを睨みつけた。
「私たちは……裏切ってなどいない……! リリスは……みんなを守ったのよ……!」
「黙りなさい」
フィオナは表情一つ変えず、指先を振るう。
風の塊がエヴァの頬を打ち、言葉を物理的に封じる。
「魔族が人間を守る? そのような妄言、三文芝居の台本にもなりません」
フィオナはリリスへと歩み寄る。
銀色の髪、ガラス玉のような瞳。
その姿が、彼女の生理的な嫌悪感を刺激する。
「特にこの娘。逃亡のリスクが高すぎます。魔族特有の身体能力、あるいは隠し持った異能。移送中の不測の事態は避けなければなりません」
フィオナは杖の先端をリリスの手足へと向ける。
合理的かつ冷徹な判断。
商品価値のない不良品を廃棄するかのように、彼女は決断を下す。
「四肢を砕き、移動能力を奪うのが最も確実です。再生能力があるのなら、帝都に着く頃には尋問に耐えうる程度には戻るでしょう」
リリスは目を見開き、迫りくる杖の輝きを凝視する。
まただ。
また、奪われる。
自由も、尊厳も、そして身体さえも。
恐怖で体が硬直する。
フィオナの唇が動き、処刑の言葉を紡ぐ。
「風よ、咎人の歩みを断て。刃となりて肉を削げ――【風切・四肢断罪】」
翠緑の魔力が収束し、不可視の刃が形成される。
真空の鎌が、リリスの細い手足を目掛けて振り下ろされる。
エヴァが絶叫する。
リリスは目を閉じた。
キィィィィィンッ!
鼓膜を引き裂くような金属音が響き渡り、小屋の空気が震えた。
翠緑の風の刃が、何かに弾かれて四散し、無害な突風となって霧散する。
フィオナの杖が衝撃で跳ね上がり、彼女は数歩後退った。
「なっ……!?」
驚愕に目を見開く彼女の視線の先。
リリスとフィオナの間、その絶対不可侵の境界線上に、白銀の影が立っていた。
床に深々と突き立てられた、長大な槍。
そして、朝日の逆光を背負い、不動の巨岩のごとく立ち塞がる全身鎧の騎士。
ゼノンである。
彼は突き立てた槍を引き抜き、フィオナへと切っ先を向けることなく、しかし明確な拒絶の意志を持って横に薙いだ。
「そこまでだ、フィオナ」
低く、抑えられた声。
だが、その底には煮えたぎるような感情のマグマが渦巻いている。
「ゼノン……? 何をしているのです。その娘は魔族の内通者……」
「違う!」
ゼノンの怒号が、フィオナの言葉を遮った。
彼は肩越しに、床に伏せられたリリスを一瞥する。
恐怖に震える瞳。
傷だらけの身体。
かつて自分が「ごめんなさい」と言って見捨てた少女が、今はさらに深く傷つき、それでも生きようとしている。
メルクリウスの言葉が蘇る。
人間として生かしてくれ
ゼノンは歯を食い縛り、フィオナを睨み据えた。
「この者たちは、俺が預かる」
「正気ですか」
フィオナの声が氷点下まで冷え込む。
「貴方は、帝国の騎士です。魔族を庇い、私の任務を妨害することは、反逆と同義ですよ」
彼女の杖に再び魔力が集まり始める。
一触即発。
だが、ゼノンは一歩も引かない。
「やれるならやってみろ!」
彼は槍をドンと床に突く。
「サラスの惨劇は、俺たちの責任だ。守れなかった俺たちの無力さが招いた結果だ。それを、生き残った弱者に押し付け、断罪するなど……騎士のやることではない!」
ゼノンの正論が、狭い小屋に響く。
兵士たちが動揺し、顔を見合わせる。
帝国の英雄、「断罪の槍」が、味方の魔導師に刃を向けている。
フィオナは唇を歪め、ゼノンの瞳にある揺るぎない決意を見て取った。
これ以上強行すれば、同士討ちになる。
そして、近接戦闘において、この距離でゼノンに勝てる魔導師はいない。
彼女は舌打ちし、杖を下ろした。
「……後悔しますよ。その甘さが、いつか貴方の喉元を食い破るでしょう」
「構わん。その時は、俺が責任を取る」
ゼノンは兵士たちに向き直り、威厳ある声で命じた。
「拘束を解け。そして、俺の馬車に乗せろ。丁重にな」
「は、はいっ!」
兵士たちが慌ててエヴァとリリスの縄を解く。
ゼノンはリリスの前に膝をついた。
白銀の手甲を外し、素手を差し出す。
リリスは怯え、身を縮める。
だが、ゼノンの瞳は、かつてバラを受け取った時と同じように、いや、それ以上に真剣で、痛々しいほどの誠実さを湛えていた。
「すまなかった」
謝罪。
それはあの時と同じ言葉だが、重みは決定的に異なっていた。
「もう、見捨てない。俺が、必ず守る」
リリスは呆然と、その大きな手を見つめた。
英雄の手。
かつて自分を突き放した手。
だが今は、温かい血の通った救いの手として、目の前にある。
エヴァがリリスの背中を支え、小さく頷いた。
リリスは恐る恐る、震える指先を伸ばし、ゼノンの掌に触れた。




