今度こそ、その手を取る
高級馬車の車輪が石畳を転がり、規則的な振動が革張りの座席に伝わる。
ゼノンは窓枠に肘をつき、流れる風景を見つめることなく、白銀の手甲に映る自身の顔を凝視していた。
兜を脱いだ彼の表情は硬く、眉間には深い皺が刻まれている。
車内の空気は重く、同乗する従卒たちも英雄の沈黙を恐れて息を潜めていた。
昨日の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
サラス防衛戦の最前線。
剣戟の響きと魔法の爆発音が交錯する戦場で、彼はあの男と対峙した。
漆黒のコートを纏い、捻じれた角を持つ魔族の指揮官。
その力は圧倒的であり、帝国の誇る「断罪の槍」をもってしても、貫けぬ壁であった。
だが、ゼノンの心を乱したのは武力ではない。
男は目的を達したと見なすや、追撃の手を止め、悠然と背を向けた。
その際、振り返り様に放った言葉。
低い、しかし戦場の喧騒を切り裂いて届いた、悲痛な響き。
「帝国の勇者よ。貴様らの洗脳は見事だ」
嘲笑ではない。
そこにあったのは、純粋な哀しみと、底知れぬ喪失感であった。
「オレの愛する人の子、リリスは貴様らに預かった」
リリス。
その響きには、血を吐くような情愛が込められていた。
「あいつはもう、魔族の裏切り者だ。同胞を殺し、母の仇である人間に尾を振る愚か者だ」
男の瞳が、一瞬だけ揺らいだのをゼノンは見た。
「だから、せめて一人の人間として生かしてくれ」
それは敵将の言葉ではなかった。
ただの男が、守れなかった娘の命乞いをする姿であった。
ゼノンは手甲を強く握りしめた。
金属が軋む音が、静寂な車内に響く。
魔族とは、破壊と殺戮のみを悦びとする絶対悪。
帝国教導院で叩き込まれた教義。
自分が信じ、槍を振るってきた正義の根幹。
だが、昨日の男の目には、人間以上に深い愛があった。
そして「魔族の血を引く子」という言葉が、ゼノンの記憶の底にある棘を疼かせた。
バラ園という娼館。
赤いバラを差し出した、銀髪の幼い少女。
戦争の祝賀会。
華やかな宴の席で、泥にまみれて足元に縋りついた、あの少女。
彼女もまた、魔族の血を引くがゆえに蔑まれ、商品として扱われていた。
あの時、自分は何をした。
「ごめんなさい」と謝り、見捨てた。
「帝国のため」というリアムの論理に逃げ、フィオナの刃が彼女に向けられるのを黙認した。
「洗脳は見事だ」
男の言葉が、呪いのように思考を蝕む。
あの少女が人間を守るために戦ったというのか。
魔族でありながら、同胞を裏切り、自分たち人間を守るために血を流したというのか。
もしそうだとしたら、自分たちが彼女にしてきた仕打ちは何だ。
守るべき弱者を虐げ、利用し、なおその献身を「洗脳」の結果だと断じる。
それが帝国の正義か。
それが、勇者と呼ばれる自分の姿か。
ゼノンは胸の奥で、何かが音を立てて崩れるのを感じた。
正義と信じていたものが、ただの傲慢な独善であったかもしれないという恐怖。
そして何より、あの少女、自分は三度殺そうとしているのではないかという焦燥。
懐の通信機が微かに振動した。
思考の淵から引き戻され、彼は無機質な魔導端末を取り出す。
フィオナからの定時連絡。
「サラス近郊の森にて、魔族内通者を発見。現在包囲中」
「対象は、治癒師エヴァ・ハインリヒ、および魔族の混血少女」
「抵抗の意志あり。これより、反逆罪に基づき処刑を含めた制圧行動を開始する」
混血の少女。
その単語が、ゼノンの全身に電流のような衝撃を走らせた。
間違いない。
彼女だ。
魔族の指揮官が「人間として生かしてくれ」と託した命を、今まさにフィオナが「魔族だから」という理由で消そうとしている。
「止めろッ!!」
ゼノンは叫んだ。
通信機に向かってではない。
御者台への命令だ。
「全速力だ! 馬が潰れても構わん! サラス近郊の森へ急げ!」
従卒たちが驚愕し、彼を見る。
だがゼノンは構わなかった。
彼は窓を蹴り開けんばかりの勢いで身を乗り出し、前方の森を見据えた。
もう、過ちは繰り返さない。
「ごめんなさい」で済ませるつもりはない。
今度こそ、その手を取る。




